「オリジナル・オブ・ローラ」をごらん!



 驚いた。近頃新刊書を手にして驚くことは殆どなくなったけれど、この本にはびっくりした。
 Vladimir Nabokov, The Original of Laura, Knopf. ウラジーミル・ナボコフの未刊の遺作(小説)である。
 頁の上半分に手書きの英文が書かれたインデックスカードが(たぶん)原寸大で複製され、下部にはその英文が印刷書体で掲載されている。したがって、1頁に掲載されている英文は10行程度。頁の裏は、インデックスカードの裏になっていて、たいていは白紙、時折り×印が書かれていたりする(×印はどういう意味だろう)。
 この本は、ボール紙のような厚紙に印刷されているため、280頁のハードカバーだけれど厚みが4センチ以上もある。最初、手にしたときはなぜだろうと不審に思ったが仔細に見て疑問が氷解した。よく見ると、インデックスカードの大きさに沿ってミシン目が入っていて、ミシン目どおりに刳り抜くとナボコフ自筆の小説草稿のカードが一束できあがるというわけである。インデックスカードには青の罫線が十数行、それに太い罫線が1本引かれている。太い罫線は青と赤の2種類がある。ナボコフは2種類のインデックスカードを使っていたようで、可能な限り正確に復元しようという編集・製作者の意思が窺われる。インデックスカードは白地なので、それを除いた頁全体はグレー地で、英文は黒インクで書かれている。特色3色刷りか4色印刷なのだろう。
 Ch.One、Two……と表記されて通し番号の振ってあるインデックスカードは、一連のものと見なすことができるが、どこに入るかわからない断章もある。書込みや削除の跡も少なくなく、ナボコフの推敲の過程をたどることもできる。インデックスカードとして出版すれば、読者や研究者が自由に判断できるわけだが、なによりもナボコフ愛読者にとっては、おおこれがナボコフの筆跡か、とそれだけで嬉しくなる。
 「群像」10月号は《知られざるウラジーミル・ナボコフ》という特集を組んでおり、ナボコフ研究の第一人者ブライアン・ボイドによる特別寄稿「ナボコフの遺産」(日本人読者のための書下し)が掲載されている。かつてボイドはナボコフ未亡人の特別の許可を得て、このインデックスカードを読む機会を得た。未亡人ヴェラと息子ドミトリイ以外にそれを読むことのできたのはたぶんボイドひとりだろう。この草稿をどうしたらいいかと未亡人に訊かれたボイドは、


 「驚いたのは、ナボコフの手稿のどんな切れ端だろうがのどから手が出るほど欲しがっていた私のような人間が、ナボコフが妻と息子に指示したように、原稿を破棄したほうがいいと勧めていることだった。」(秋草俊一郎訳)


 草稿は「断片的で未完成」であるだけでなく、『ロリータ』のテーマの繰り返しで、ボイドは「不純物が残留した未加工品ではなく、完成品だけが放つ時間を超越した黄金の輝きに常にこだわった」ナボコフの基準に照らすと、彼の遺志どおり破棄すべきだと考えた。最後の長篇『道化師をごらん!』の不出来さに「ナボコフの創造力の炎が消えかかった兆候」を感じていたボイドは、この草稿がそれを裏づけることを懼れた。そしてそのとおり進言したが、ヴェラは破棄しなかった。息子のドミトリイもそれには従わなかったばかりか、インデックスカードのコピーをボイドに送りつけてきた。ナボコフの邸宅で一度読んだきりだったボイドはコピーを精読した。「読みこむにつれ、足りないものを惜しむというよりは、あるものを愉しめるようになり、どんどん好きになっていった」とボイドは述懐する。人は本を読むことはできない、ただ再読できるだけだ、と言ったナボコフの言葉を想起させるエピソードだ。


 「『オリジナル・オブ・ローラ』が新作としてではなく、未完成長編のじれったい断片集として、どう着地するのかわからない新しい方向性へののぞき穴として、誰も解けないパズル(略)として書店に並ぶのならば、原稿の出版は――読者が意のままに再シャッフルできるミシン穴つきカードのかたちでの――ナボコフという測りがたい存在をめぐる私たちの理解にプラスにしかならないだろう。」(同)


 というわけで、インデックスカード集という奇抜な形での公刊を見たわけだが、ナボコフ自身は「読者が意のままに再シャッフルできる」小説を目指したわけではない。そうしたロールプレイイングゲーム風な、あるいはポストモダン風な小説は、ナボコフらしくない。ボイドのいうように「完成品だけが放つ時間を超越した黄金の輝き」を目指し、読者のあらゆる「読み」を計算に入れ、さらにその高みに誰も気づかないような巧緻(狡知)な罠を仕掛けてほくそ笑んでいるのがナボコフという小説家である。むろんそうした小説を「意のままに再シャッフル」して読む読者の「自由」を妨げるものではないけれども、そうした「自由な読み」が作者の意図したもの以上に作品をリッチにするかどうかは保証の限りではない。
 本書については、同じく「群像」掲載の若島正の評論「「私」の消し方――ナボコフの未刊長篇『ローラのオリジナル』を読む」が、丁寧な解題となっている。わたしもこれから若島に導かれてインデックスカードの迷宮にまよい込むつもりだが(いつ時間がとれるか?)、若島が「日本の読者の目を惹きそうな」箇所として紹介している部分を、若干補いつつ急ぎ紹介しておこう。登場人物フローラが大学のフランス文学の試験の際に、カンニングのために親指の付け根の膨らみのところに書きこんだMで始まる作家のリストで、順にマルロー、モーリアック、モーロワ、ミショー、ミシマ、モンテルラン、モーラン。これらの作家たちは、stunning  mediocrities どうしようもなく凡庸であるというのである。まあこれはナボコフ自身の意見として読むべきかもしれない。
 とりあえずは、編者ドミトリイが暫定的に構成した順序にしたがって頁の最初から読んでゆくだろう。その後、さて、インデックスカードを刳り抜きたい誘惑に抗することができるだろうか。二冊買って一冊をカード化すればいいのだが、その余裕がなければどうしよう。と考えて、はたと気づいた。刳り抜いた跡に、またカードを嵌め込んでおけば、本はカードの収納函になるわけだ。これはなかなか洒落ている。

The Original of Laura

The Original of Laura