紫式部が清少納言をライバル視していたことはよく知られている。『紫式部日記』に清少納言を名指しで辛辣に批判した箇所がある。
《清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、まな書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬことおほかり。》
日記とはいうものの、この箇所はだれかに語りかけるいわゆる消息文となっており、斎院の女房の手紙文にたいする批判やら、和泉式部や赤染衛門の歌への称賛といった前段につづいて清少納言への批判が述べられる。清少納言こそしたり顔をした鼻持ちならぬ人で、賢そうに漢字を書き散らしているけれどもよく見ると未熟でたいしたことはない。この紫式部の清少納言批判は『源氏物語』帚木巻の雨夜の品定めを思い起こさせずにいない。
雨夜の品定めについては前にすこし触れたけれども(id:qfwfq:20080615)、藤式部丞が、これも真名書きちらすさかしらな女の話を披露した後、馬の頭が最後に結論めいた話をしてお開きとなる。
《すべて男も女も、わろものは、わづかに知れるかたのことを、残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。(略)さるままには、真名をはしり書きて、さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり。》
生半可な輩はわずかばかりの知っていることをすべて見せてしまおうとするから困りものです。あげくは女同士の手紙にも漢字だらけの文を書いて、おおいやだ、女らしかったらどんなにいいかと思ってしまう。紫式部は漢学者の父為時が男の子でないのを残念がるほど漢籍の素養に秀で、『源氏物語』にも白居易の引用は少なくない。だが『紫式部日記』に「なでふ(どういう)女が真名書は読む」と女房たちが陰口をきく様子を書きとめているように、当時、女が漢籍を読むことは忌み嫌われていた。馬の頭の言葉もそうした風潮を如実に示したものであるけれども、それを女である紫式部が男の口をかりて書くところに雨夜の品定めのアイロニーがある。本居宣長は雨夜の品定めのこのくだりを紫式部の「みずからの、学問だてをにくみてせぬ心を、しめしたるものなり」と評しているけれども、ことはそう単純ではない。
事実、日記のなかで紫式部は、同僚の女房たちに「気取ってて取っつきにくく、物語り好きで、何かといえば風流ぶって歌を詠み、他人を見下している嫌な女、と思ってたけど、あんたってほんとは不思議なほどおっとりした人なのねえ」と口々にいわれて、あららそんなにぼんやり者と思われてたなんて、と内心思いはするけれど、それが慣い覚えた身の処しかたで、中宮にさえ「とても打解けてはつきあえないと思ってたけど、他の女房よりずっと親しくなったわね」と何かにつけて言われる有様。ある女房には学のあるのを鼻にかけてと「日本紀の御局」という渾名をつけられる始末で、それならとわたしなんか「一」という漢字すら書けませんし、屏風の漢詩文も読めませんという顔をしていたのに、中宮が白氏文集を読みたそうになさっているので、女房たちのいない隙に隠れて楽府の進講もしてさしあげたけれど、もしあの口うるさい女房にでも知られたらなんて言われることか。あ〜あ、やんなっちゃう。「すべて世の中、ことわざしげく(なにかとことが多く)、憂きものにはべりけり」と記している。
年暮れて我が世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな 紫式部
国文学者の西郷信綱は、『源氏物語』の文章が同じ散文でも『竹取物語』や『宇津保物語』のような男の手になるものと違って「ずっと詩性と象徴性に富むのはなぜか」と問いかけ、それは「女の作が生活のなかに生きる歌の伝統を母胎として産み出されてきたのに基づく特質であった」と自答している。紫式部には(漢文との)バイリンガルな経験が強烈であっただけ、異質なものを通して自国語を対自化せねばならず、『蜻蛉日記』などに比べて「詩と散文のこうした分化過程はいっそう劇的につらぬいたと考えていい」と。
《つまりその文体が詩性に富むのは、生活のなかに生きる歌の伝統が平板化という意味でのたんなる散文化にあらがい、その散文に独自の緊張や奥行きや弾力を与えているからで、逆説めくが、それは詩の権利をも放棄しない散文なのだ。それでいてそれは不思議にも歴として長篇の作り物語であった。》
卓見である。「詩と散文の分化が始まったばかりの、そういう歴史的な一回性のなかで、紫式部のように女であってしかも漢文が自由に読める作者のみのなしえたところであった」。歴史的な一回性とは、以下のような事情をさす。
《漢学こそ律令制における権威の支柱であったのを考えるならば、古代社会の地すべりにも似た瓦解がこのへんで加速され、その階層的分化と多様化が進み、それとともに公的な統一のかげに隠れていた諸力が蠢動し始め、これまで聞こえなかったさまざまな声がざわめき出したゆえんを納得できるだろう。性格や運命を異にするいろいろな人物が登場してきて複雑な模様を織りなす長篇小説が現れたのは、まさしくこうした崩壊過程のなかからであった。》
こうしたバフチンのいうポリフォニー、あるいはオーケストレーションは小説というサブジャンルにおいてこそ可能であった。小説すなわち狂言綺語。白居易が「狂言綺語ノ誤リヲ翻シテ讃仏乗ノ因トセム」と謳ったように文藝の制作には一種の宗教的罪業感がつきまとっていた、と西郷信綱はいう。そして「紫式部は、狂言綺語と覚悟しながら『源氏物語』を書きついで」いったのではないか、と。紫式部の「すさまじき」心のうちとは、あるいはそうした「狂言綺語を綴らざるをえなかった」小説家の「罪業感」であるのかもしれない。
ちなみにわたしが『源氏物語』の雨夜の品定めの面白さを知ったのも、この西郷信綱著『源氏物語を読むために』(平凡社、1983)によってであった。前にちらと触れたことがあるけれども、大学に入った年にわたしは西郷信綱師の講筵に列した。中井正一の美学入門をテキストにした講義は凡才には高級すぎて豚に真珠だったが、西郷師の講義を受けられるというだけで満足だった。卒業して一、二年たったころ、ある私鉄のホームで西郷師の姿を見かけた。勇を鼓して話しかけた。おそらく編集の仕事をしているというようなことを話したのだろうと思う。ことばをかわしたのは後にも先にもただ一度である。ときには蛮勇も振ってみるものである。『詩の発生』『古事記研究』『古代人と夢』『神話と国家』『梁塵秘抄』『斎藤茂吉』……、わが貧しい書架にも師の著書は少なからず鎮座している。ほとんど私淑というに等しいが、わが師であり、不肖の弟子である。
二十五日夜半、師は長逝なされた。心より御冥福をお祈り申し上げます。
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