十字架をうつしづかなる釘音きけり――塚本邦雄論序説(10)


 「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があらう」。この有名なマニフェスト塚本邦雄が高らかに宣したのは昭和三十九年、雑誌「短歌」に寄せたエッセイ「短歌考幻学」においてであり、それはのちに「前衛短歌のバイブル」と評される第一評論集『夕暮の諧調』に収められて人口に膾炙することになるのだが、その名も『定型幻視論』と名づけられた第二評論集の跋文で塚本はこの自らのクレドを引きながら「この断言をあえてするまでに、私は私の蒙(くら)さに幾度切歯扼腕を繰返したことか」と述べてゐる。塚本に焦慮を齎したのは、むろん「私の蒙さ」以上に「現代短歌を支えている基盤の蒙さ」(原文まま)であつて、当時の歌壇がいかに鎖された閉域であつたかは中井英夫の『黒衣の短歌史』を一瞥すれば容易に理解できるだらう。
 ちなみに昭和三十九年は、塚本、寺山修司らを見出した中井のあとを受けて前衛短歌運動を精力的に推進した冨士田元彦が――中井自身はかうした「運動」を傍らで冷やかに見てゐたのだけれども――「短歌」の編集長を更迭されて短歌ジャーナリズムが再び保守反動へと回帰せんとするまさにその年であり、その反動化に抗するかのやうに他ジャンルの芸術家たちをも巻き込んで<フェスティバル律>が開催されるといふ、いはば疾風怒濤のただなかであつた。
 かうした状況は『冨士田元彦短歌論集』(現代歌人文庫)や、現在刊行中の菱川善夫著作集第四巻『美と思想』(沖積舎)などに詳しいが、ここでは深入りはしまい。冒頭の塚本の断言に戻れば、この言葉を引用しつつ塚本と葛原妙子の<幻視=予言>の力を論じてゐるのは田中綾の「<幻視>再考――批評家としての塚本邦雄*1である。
 田中はこのエッセイの冒頭で、塚本の歌人・批評家としての「揺籃期または<前夜>に、一人の人物が深くかかわっていた」として杉原一司を召喚し、「極太の万年筆で杉原一司が塚本に書き送った書簡は、まだ何ものでもない青年・塚本を導き、その方法の基軸となった。杉原一司が綿密に練り上げた設計図の上で、青年・塚本の創作活動は展開されていったのである」と、杉原の文章や塚本宛の私信と、塚本の雑誌掲載の文章とを並べて、塚本がいかに杉原の影響下にあつたかを白日の下に曝してゐる。一例のみ引用すれば以下の如くである。


 「コクトオの最大の手法は何と言つても素材を解釈することであつた、と私は思ふのです。手法以外の手法と言ふべきもののひみつはこれではないかしら。デフォルメとはちがふのである。あるひは立体派がやる組直し作業ともちがふのです。また未来派の同時性、そんなものでもないのです。コクトオのエッセイを見るとそこには直喩の比類のない活用が見られますね。象徴ではないあの軽妙でしかも真理に直入する思惟のすばらしさ」(塚本宛の杉原一司の手紙、寺山修司塚本邦雄論」『黄金時代』所収)


 「コクトーの最大の手法は、何といっても、「素材を解釈する」ことにあったと思います。手法以外の手法とも言うべき秘密はこれではないでしょうか。デフォルマシヨンでもなく、キュビストのやる組直し作業でもありません。未来派の同時性、それとも違います。コクトーのエセーを読むとそこに比類のない直喩の活用が見られます。象徴でなく、あの軽妙で然も真髄に直入する思惟は「素晴しい」と言われていい筈です。」(「短歌研究」1952年3月号、塚本邦雄『花隠論』所収)


 私はこの引用を目にして我が目を疑つた。塚本邦雄が盗作紛ひの文章を発表したからか? 否、さうではない。私が愕いたのは、田中綾がいみじくも「塚本邦雄は杉原一司という夭折の畏友を嗣ぐべく、かれの思想を丸ごと内包して立ち上がった。そして、自らの論理構築へと歩んでいった」と書くやうに、邦雄がこれほどまで深く一司に影響を受けてゐたのかといふことに、である。若き邦雄は、かれらの同人誌「メトード」に掲載された一司の歌論を韋編三絶したらう。一司からの来翰を嘗めるやうに熟読したらう。「旧版の『国歌大観・正続』のほとんどを諳んじていた」*2ほどの抜群の強記で鳴る邦雄であつてみれば、和歌であらうがエッセイであらうが、一字一句違へぬまま記憶することなど手もないことであつたらう。あるいは、もはやそれが一司の言葉なのか我が言葉なのかも見分け難いほど血肉化されてゐたのかもしれない。
 邦雄が天理語学専門学校(現、天理大学)の学生であつた一司と初めて会つたのは昭和二十三年十二月のことであるが、出会ひにふれる前に本連載第七回に続いて「オレンヂ」第三号(昭和二十二年三月)を一瞥しておかう。邦雄は<作品三>の冒頭に六首、おなじく一司も六首、出詠してゐる。第二号で邦雄は<オレンヂ詠草>といふ活字の小さい扱ひであつたが、この号では<作品二>と同号活字の掲載である(<作品一>は佐美雄、哲久、史ら)。<作品三>より活字の小さい<作品四>には、山中智恵子、竹島慶子(翌二十三年五月に邦雄と結婚する)、稗田雛子(同人誌「メトード」のメンバー)らが出詠してゐる。
 まづは邦雄の六首を見てみよう。


 敗れ果ててなほ只管(ひたすら)に生くる身のかなしみを刺す夕草ひばり
 愚かなりし昨日の我を言はざれば皎とし耀りぬ花すすき原
 もろともに誇る一日を持たざれば日昏れは行けれ道の片処を
 夕紅葉儚きことにきほひたる身のすゑを彩ふさむき紅
 蜉蝣と灯(ともし)と霧とうすれゆき孤りなる夜々ぞ吾が炎ゆるなし
 いくばくか身に煌きて亡せゆけり冷やけき草のもみぢ夕映え


 一首目「夕草ひばり」は、本連載第四回で見たやうに「木槿」(二十一年十二月)出詠歌の表記を更へたものである。四首目、六首目も同様で、六首目「木槿」出詠の歌は「いくばくは身にきらめきてのこりけむうつろひし草の紅葉夕映」となつてゐる。
 「木槿」出詠歌は未刊歌集『初学歴然』に収録されてゐるが、もうひとつの未刊歌集『透明文法――「水葬物語」以前』にも、形を更へて収録されてゐる。煩を厭はず引用すれば以下の如し。


 愚かなりしきのふのわれを言はざれば皎とし荒るる花薄原
 やぶれはててなほひたすらに生くる身のかなしみを刺す夕草雲雀
 もろともに誇る一日を持たざれば百日紅白し真夜の坂路
 蜉蝣と灯(ひ)と秋霧とうすれつつひとりなる夜夜をわが炎ゆる莫し


 いづれにせよ「日本浪漫派」の、あるいは「潮音」幽玄体の影響の色濃い詠草である。『初学歴然』によれば、邦雄は二十三年九月の<暗緑調・蜜月抄>十首まで「木槿」に出詠してゐたことになるが(蜜月抄は婚姻歌)、掉尾にきてわれわれの知る塚本邦雄が、すなはち『水葬物語』に収録される歌が一首やうやく顔をのぞかせる*3。『水葬物語』掲載の表記で引用しよう。


 春はやく肉体のきず青沁むとルオーの昏き絵を展くなり


一方、杉原一司の六首は以下のとほり。


 硝子器の罅を愛すとあざやかに書けばいつしか秋となりゐる
 時計など持たないわれは辞典とか地図とかを読み楽しく過ごす
 曼珠沙華咲く散歩道ゆくとてもきらびやかなる悪はねがはず
 日まはりの烈しき色や形などつよくはげしくよみがへり来よ
 空虚なる想ひは去れよ去れよとて石と石とを軋らせてゐつ
 花らしき花も咲かねばたなごころ裂けて花弁となりし夢見ぬ


 塚本の杉原一司論によつて既にわれわれに親しい歌である。この「オレンヂ」第三号の翌月、昭和二十二年四月に杉原は鳥取で同人誌「花軸」を創刊し、短歌の旺盛な実験を始めてゐる。「オレンヂ」の誌面の隣合せに掲載された邦雄と一司のこれらの歌を見比べるとき、私はある事実に目を瞠らざるをえない。モダニズムの洗礼を受け、佐美雄、哲久、史らの歌集に惑溺し、「潮音」「青樫」の歌人たちに大きな感銘を受けてゐた若き邦雄にして(本連載第二回参照)、「木槿」や「オレンヂ」に出詠するのはかうした旧態依然とした歌であつたといふ事実に。
 のちに塚本は「不透明文法――わが「日本浪漫派」体験」*4で、その頃のことをかう記してゐる。


 「溢れ出ようとする言葉を歯の柵で止めねばならぬほどに、心はそのまま調べに乗り、調べは冒険を孕み、新しい生を幻覚させた。
 にも拘らず私の歌は変らなかつた。しかも変貌か然らずんば沈黙かの切羽詰つた心を、これらの歌の背後に予感した男がゐた。全く未知の歌人、その年昭和二十三年二十三歳の、同じ「日本歌人」同人杉原一司だつた。私は彼が突如よこした書翰の句句を忘れない。「貴方のうちなる『日本浪漫派』の亡霊の貝殻追放を敢行せぬかぎり、作品は前川佐美雄の描いた円周から一歩も出ぬ結果とならう。憐れなエピゴーネンは掃いて捨てるほどゐる。貴方がその中の一人になることはあるまい。なつてみづから足れりとする人とも思へぬ。僕も決して『日本浪漫派』の残党になるつもりはない。ではわれらは何をなすべきか。方法論の確立、これ以外に焦眉の問題はない。(中略)悲しいかな貴方の作品は、稀なる可能性を秘めながらも、メトードを持つてゐない。自然発生的に、小鳥のやうに歌つてゐるに過ぎぬ部分がある。まやかし以外の何だらう?」


 邦雄は杉原に出会ひ堰を切つたやうに実験を開始する。未刊歌集『透明文法――「水葬物語」以前』を繙くとき、ある頁を境にマチエールが、そして文体が一変するのに人は気づくだらう。それ以降の歌は「メトード」創刊に到るまでの煌びやかな試行の痕跡である。杉原は「二年間私の峻烈な調教師となり、私の書く一句、一行に眼を光らせ、『水葬物語』作品群の成つた時、つひに初めて莞爾として頷いた。この微笑が最初の最後であつた」。その「調教」ぶりは『残花遺珠』収録の、杉原の邦雄宛書翰に垣間見ることができる。

 かれらのメトード=方法論とは何か。そのうちの最大のものが音数律の変革であつたらう。短歌が現代に生きる人間の意識の反映であり、その意識を(あるいは無意識までを)イマジネーションによつて捉へること、そのためには新たな文体が要請されねばならない。冒頭でふれた「幻を見る以外の何の使命があらう」に続けて塚本はかう書く。「現実社会が瞬間に変質し、新たな世界が生れでる予兆を、直感によつて言葉に書きしるす、その、それ自体幻想的な行為をあへてする自覚なしに、歌人の営為は存在しない」と。


 ここで本連載の第一回でふれた「黄金律の変革」の試行といふ地点にやうやく立ち戻ることになる。たとへば杉原が「花等みなアクビする夜半をんしつのタナにおき忘れてた録音機」の如く試行した語割れ・句跨りを、邦雄はさらに精緻に鍛へあげた。試みに第一回で取り上げた「しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり」(『水葬物語』)を例にその技法を見てみよう。この歌を五七五七七の音律で区切るとかうなる。


 しかもなほ 雨ひとらみな 十字架を うつしづかなる 釘音きけり


そして、これを意味内容で区切るとかうなる。


 しかもなほ雨 ひとらみな 十字架をうつ しづかなる 釘音きけり


これは七五七五七である。すざまじい、と思ふ。絶句し、そして畏れと讃嘆の思ひが同時に押し寄せてくる。もう一度見てみよう。


 しかもなほ雨 ひとらみな 十字架をうつ しづかなる 釘音きけり
 しかもなほ 雨ひとらみな 十字架を うつしづかなる 釘音きけり


意味上では初句七音で切れる。読み手は「しかもなほ雨 ひとらみな」と読みながら、「しかもなほ 雨ひとらみな」の韻律を耳の底で余響のごとく響かせてゐる。初句七音に遅れて初句五音が出発し、二句五音を追ひかけて二句七音が無音のフーガのやうに木霊する。「十字架をうつ しづかなる」もまた同様である。これが塚本邦雄の「定型詩への憎しみ」を発条になしえた「いのちをかけた冒険」の正体である。私はこれを「風雅の技法」と呼ぶ。
 昭和二十四年八月にかれらが語らつて創刊した「メトード」第一号に邦雄が寄せた「卓上に旧約、妻のくちびるはとほい鹹湖の味爽のねむりを」を初めとする「アルカリ歌章」十五首は、合同歌集『高踏集』に、そして『水葬物語』に収録される*5。われわれの知る塚本邦雄の誕生はこれを劃期とする。「メトード」は翌二十五年二月、第七号で終刊を迎へる。わづか半年余りの、しかしこのうへない豊穣な稔りを生み出した活動であつた。その三ヶ月後、一司は二十三歳九ヶ月でこの世を去る。
 そしてその半年余ののち、合同歌集『高踏集』が刊行される。邦雄の「クリスタロイド」七十六首は、「メトード」より四十五首が撰入され、一首をのぞく七十五首が『水葬物語』に収録された。跋文の一部を引用しよう。


 「これは僕が僕たちの、「メトード」と呼ぶ、小さな実験室にたてこもつた、ある一時期に得たクリスタロイド(可結晶体)である。(中略)僕はなほこの報いのない実験に、明日を賭けつづけよう。そして、この実験室の最初の設計者であつた、亡き友、杉原一司に、君が愛してくれた「水葬物語」を、今は文字通り喪の歌として捧げる。」


 「クリスタロイド」は杉原一司が口癖にしてゐた言葉であつたといふ。


 ちやうど三ヶ月に亙つて書き継いできたこの拙い書き物もこのあたりでいつたん畢へることにしよう。塚本邦雄が『水葬物語』を刊行した年に生れた私が、最初の全歌集『塚本邦雄歌集』、最初の評論集『夕暮の諧調』、そして最初の小説集『紺青のわかれ』を刊行して歌人・批評家・小説家としての活動をまさに大きく展開する時期の塚本邦雄に初めて出会ひ、爾来三十有余年に亙つて短歌のみならずさまざまに刺戟を受け続けてきたことに私はある感慨を抱かずにゐられない。他人には意味のない私事に過ぎないが、人をしてかうした書き物へと向はせる力は私事を措いてない。敢へて一言書き添へる所以である。
                                   (この項、畢)

*1:現代詩手帖特集版「塚本邦雄の宇宙」所収

*2:島内景二、『定家百首・雪月花(抄)』解説、講談社文芸文庫

*3:『初学歴然』の掉尾に、『水葬物語』に収録された歌一首を含む、「木槿」出詠月の記載のない<転落公子>五首がある。歌は「男は身をひさぐすべなし若萌えの野に黒き椅子一つころがり」。

*4:『稀なる夢』所収

*5:それぞれの表記の異同は塚本邦雄全集別巻の解題に詳しい。