あとかたもなくひびきやみぬる――塚本邦雄論序説(5)


 「今は昔、その旗幟に「新芸術主義」を謳ひ、一部の人々に匿れた宝石のやうな、冷やかな情念の輝きを惜愛された短歌グループがあつた。昭和十五、六年をピークとして全き燃焼をとげ、戦争を境として次第にその熱と光りを喪ひ、今は行方もつまびらかにしない。グループの名を「青樫」と呼び、ことさらに系譜を問ふならば「潮音」につながる、あるいはつながりを絶つた真水とでも言へようか。」*1


 その代表的歌人、本田一楊については、かつて上掲の引用文とともに記したことがある*2。「潮音」と「日本歌人」の狭間でいづれにも一線を劃し、「新風の創造にむかつて」「詩精神の爪を研ぎすましてゐた」「若き豹」たちと、青年邦雄は戦争末期の呉の古書店で出会ふ。四十年後、呉を訪れて行なつた講演「初心忘るべし」*3 で塚本は当時を回想してかう語つてゐる。


 「呉の市中の防空壕の中で、あるいは押入を遮蔽幕で仕切って、目張りをしてその中で、私は英語やフランス語の辞書と各種雑誌のバックナンバーに囲まれて過していました。」(原文新かな)


 各種雑誌のバックナンバーとは、「潮音」「心の花」「日本歌人」「水甕」「青樫」等々で、「潮音」は太田水穂の主宰する歌誌、のちに塚本は「潮紅いかに――私の「潮音」体験」*4で当時を振り返ることになる。「潮音」では木本通房、大井廣らに、「日本歌人」では、前川佐美雄、斎藤史らに、「水甕」では日比修平、明石海人らに大きな刺戟を受けたと語つてゐるが、それらについてはのちに触れることにして先を続けよう。


 「押入の中で、防空壕の中で読んだ「青樫」の歌は、まことに清新で、時には「日本歌人」より光り輝いていました。私は陶酔した記憶があります。」


 当時(昭和十六年)、邦雄が入会した「木槿」は、「潮音」から分かれて呉で刊行されてゐた歌誌で、「青樫」もまた「潮音」から分かれた秋田篤孝(青雨)が妻の遠山英子とともに大阪で刊行してゐた歌誌である。邦雄はのちの昭和十九年に「青樫」に加はり、生涯の伴侶となる女性と相識ることになるが、おそらく「木槿」の歌風に慊りぬものを感じてゐたのだらう*5


 「当時「青樫」には、下条義雄、本田一楊、水野栄二という三羽烏の秀才がいまして、その一人一人の作品が『大和』を読んでも浮かんでこない強烈な一つの喜び、それから「潮音」のバックナンバーのオレンジ色で印刷していた歌では感じとれない鮮やかな一つの現代の意識、そういうものが多分に読みとれました。」


 『大和』とはいふまでもなく前川佐美雄の第三歌集(昭和十五年刊)である。本田一楊については、これもかつて記したやうに塚本は「流觴」「続・流觴」と再度に亙るオマージュをかれに捧げてゐる。「流觴」の発表を機縁に、かつての「青樫」同人からバックナンバーの寄贈を受け、再度、本田一楊論を試みたのが「続・流觴」で、そこに撰出された三十首余が本田作品の真髄であるといへようか。塚本が撰び抜き、さらにゴチックで強調したのは次のやうな歌である。


 都より風にし遣らばつたへてむ流るるは人、雲と候鳥
 砲煙のあれは名もなき草のわたとびちれやれちれ雄たけびのごと
 さかんなる花の占めゐし空と思ふあとかたもなくひびきやみぬる
 母となる罪咎なくに冬棕櫚の花かくろふるかくさふべしや


 これらは昭和十五年から十六年にかけての歌、「ほぼ二年の間に燃え、燃えつくした、一人の才能の昼花火、夜の菖蒲にも肖た、無償、無援の歌」であり、就中「さかんなる」は「そのひびきの勁さと、結構のゆるぎなさといふ点では、第一位に推してよいだらう」*6と述べる。


 「結構は、この異例の用言三句切を、しかも用言でうけてむすび、体言止以上の重量感を、一時与へる、新古今を出て藍よりも青いその発見を特に指したつもりである。救ひのない、虚無感を、一時代の終り即みづからの青春の終りを、この作者にはめづらしく切りすてたやうな息づきで、大胆に歌ひ放した。」


 塚本が「流觴」で本田一楊の歌として採りあげた「たれかわれらの胸揺り歌ふいやはてのかなしみの日の若葉の歌を」は水野栄二の歌である。塚本は水野へのオマージュ「緑蔭餘殃」*7で水野の歌三十三首を撰してゐるが、上記の歌はそのなかに含まれてゐる。水野もまた昭和十五年から十六年にかけて「青樫」に数々の秀作を発表し、終戦を待たずに没した夭折の歌人であり、塚本のなかでは下条義雄を加へた三羽烏が渾然としてゐたのであらう。何万首もの歌を記憶する想像を絶した強記の塚本が記憶をたどつて記した水野の歌の正しい表記は次のとほりである。「誰かわれらの胸揺りうたふいやはてのかなしみの日の若葉のうたを」。


 本田一楊は昭和五十八年(1983)に歌集『空蝉楽』(青樫社)を上梓する。おそらくこれが本田一楊の単独の最初の歌集だらう、昭和四十七年(1972)に復刊した第三次青樫(橋本比禎子主宰)に加入した本田が、同年より昭和五十七年にかけて発表した歌より四百三十七首を自撰したものである。
 同書によれば、本田は明治四十年(1907)生れ、東京写真大学(現東京工芸大学)卒業とあるが、これは前身の東京写真専門学校だらう(1966年、東京写真大学に改称)。のちに写真スタジオを経営する。本田は、旧制中学時代に友人の石川信雄と高須茂の三人で詩の同人誌を始める。石川信雄はいふまでもなくのちの「日本歌人」のモダニストジャン・コクトーの写真を巻頭に掲げ、前川佐美雄、平田松堂、中河与一の序文を戴いた歌集『シネマ』(昭和十一年)は青年邦雄にも影響を与へたはずだ。早稲田大学に入り短歌に志した石川*8に誘はれて、本田も短歌を始める。高須茂は佐藤春夫門下の俳人、句集『軍鶏』を持つ。
 ともあれ、本田は戦中か戦後に短歌をはなれ、昭和三十三年頃、小沢芦青の主宰する「阿佐比古」に加入して俳句の道へ進むが、再び短歌へと帰還する。『空蝉楽』にはしかし、当然といふべきか、往時の輝きはない。四百三十七首に殆ど見るべき歌はないが、あへて撰すれば以下のやうにならうか。


 たてがみより抜きし手に汗したたれり馬の羞恥をわれももつゆえ
 老眼に乳の色せる独活食みぬまずさきの世より若き母きて
 熟れきった桃三人が囲みたりかならずひとりきずつくまでを


 本田は、塚本の論「続・流觴」を知つてか知らずでか、『空蝉楽』に昭和十五年詠として次の一首のみを録してゐる。


 さかんなる花の占めゐし空と思ふあとかたもなくひびきやみぬる


------------------------------------------------

*1:「流觴」、『定本 夕暮の諧調』本阿弥書店、1988

*2:「一茎の花――火の雉子、水の梔子(その2)」(2007-03-25)

*3:「初心忘るべし」、一九八四年五月二十七日、呉歌人協会講演記録、『初学歴然』花曜社、1985所収、現代詩手帖特集版「塚本邦雄の宇宙」に再録

*4:「潮紅いかに――私の「潮音」体験」、『非在の鴫』1977所収

*5:木槿」では、吉富英夫、阿部英彦といつた歌人の歌に瞠目した、わけても阿部英彦は「明かに天才だと思いました」と述べてゐる。

*6:「続・流觴」、『定本 夕暮の諧調』所収

*7:「緑蔭餘殃――水野栄二論」、『序破急急』筑摩書房、1972所収

*8:石川信雄は明治四十一年生れ。大正十五年「香蘭」に入り、短歌を始める。昭和五年、筏井嘉一らと「エスプリ」を創刊。九年に前川佐美雄が創刊した「日本歌人」を主舞台に作歌活動を行なふ。塚本邦雄『残花遺珠』(邑書林1995)に石川信雄論を収める。