上林暁と関口良雄


 上林暁に『随筆集 幸徳秋水の甥』という本がある。昭和五十年(1975)に新潮社から刊行されたものである。何年か前、私はこれを古書店で購った。函入りの上製本で、パラフィンも残っている。見返しに「うすうすとこんにゃく色」に色褪せた新聞の切抜きが二葉貼ってあった。一枚はこの本『幸徳秋水の甥』の無署名の書評。病を得て上林の「文章はいよいよ平明簡潔になっている」と評している。もう一枚は「十四年目の春」と題した上林自身の随筆。五一年一月三〇日と手書きの日附が書き込まれている。
 上林は「私が脳出血で倒れてから、今年の春は十四年振りである」と書き出して、食欲は旺盛、読書欲もまた旺盛で、と最近読んだ本、これから読む本(金子光晴全集からニーチェまで)をずらりと列挙し、最後に今年の春は句集と小説集を出すけれども、「創作集はこれで二十八冊になる。一生の念願である三十冊になるのも、あと二冊である。果たして、とんとん拍子にゆくかどうか」と結んでいる。
 上林が予告している句集と小説集は『木の葉髪』と『極楽寺門前』。いずれも春よりは少し後になったが年内に刊行された。『極楽寺門前』も古書店で入手したが、あとがきに「一生の念願である第三十創作集が果して実現出来るかどうか」とある。よく知られているように、上林はこの四年後、五十五年に七十七歳で長逝、翌年『半ドンの記憶』が第二十九創作集として刊行され、これが最後の小説集となった。


 上林暁のすべての著書を写真版に収めて『上林暁文学書目』を刊行したのが古書店山王書房店主・関口良雄で、関口の蒐集した上林の初版本、異装本などは日本近代文学館に寄贈され「関口良雄文庫」として保存されている。関口に『昔日の客』という随筆集があり、木山捷平全詩集やみさを夫人の歌集を出版する神田神保町古書店・三茶書房より昭和五十三年に刊行された。
 関口は、上林の家を初めて訪ねたときの思い出を「上林暁先生訪問記」に記している。上林が二度目の脳出血で倒れる前年の昭和三十六年、関口は阿佐ヶ谷の上林宅を訪れる。机に書きかけの原稿を置いたまま昼寝をしていた上林は関口を迎え入れ、しばし歓談の時を過ごす。やがて日が落ち、関口は暇を告げる前に持参した上林の著書『ちちははの記』を取り出して署名を乞うた。上林は承諾し、机に向かい――


 「「これでいいですか」と先生は筆をおかれた。きちんとした正しい字で「本を愛する人に悪人はいない」と誌してあつた。
 瞬間私は、こりやあ悪人にはなれないぞと思つた。」


 この箇所を読むたびに、私は口元がほころぶのを抑えられない。音楽を愛する者に悪人はいない、という科白が出てくるのは五木寛之の「海を見ていたジョニー」だったか。本にせよ音楽にせよ、これはそうあってほしいという願望が込められた、いわゆるパフォーマティヴな言明であるというべきだろう。関口は帰る道すがら、「ほんたうの文学者に会つたといふ感動で胸が一杯になり、何回も何回も署名本に見入つた」と書いている。
 ちなみに同書の表題となった「昔日の客」は野呂邦暢の思い出を語ったエッセイ。野呂は小説家としてデビューする前、山王書房の常連客だった。同じエピソードを野呂もまたエッセイで繰り返し書いている。「S書房主人」(『古い革張椅子』)と「山王書房店主」(『小さな町にて』)と。有名なエピソードなのであらためて書くまでもあるまい。
 関口は『昔日の客』の出版を心待ちにしながら完成を見ることなく癌でこの世を去った。亨年五十九。野呂もまた四十二歳で急逝、奇しくも上林暁と同じ昭和五十五年のことであった。
 新聞の切抜きが挟まっていたもう一冊の古本については次回に――。