書痴あるいは蒐集家の情熱



 先日、さる方より塚本邦雄の『良夜爛漫』を頂戴した。わたしが塚本邦雄の大のファンであると御存知で、永年架蔵されていた同書を惜しげもなく下さったのである。『良夜爛漫』は『定家百首 良夜爛漫』より巻頭の「藤原定家論」と跋文を省いた三百十部・限定版で、いずれも河出書房新社刊。『定家百首』は単行本も文庫版も持っているけれど、限定版の味わいはまた格別である。麻布のクロス貼函、表紙はインド産羊皮、見返は英国製コッカレル、背に題名の金箔押、本文は三色刷、天金。政田岑生装訂。別丁の和紙に毛筆で短歌一首と落款がある。


  水無月の沖こそ曇れことわりも過ぎしことばの花實をつくし


 編輯は日賀志康彦氏、すなわち歌人の高野公彦である。
 塚本邦雄には夥しい数の限定版がある。通常市販されている歌集や評論集・小説集にも凝った装訂の本が多いが、さらにそれぞれに少部数の限定版がある。また、数十首を纏めた間奏歌集の殆どが限定版である。そのうち何冊かは架蔵しているけれども、抑々限定版とか豪華版にそれほど興味がなく、贅を凝らした装本を珍重はしても強いて蒐集したいとは思わない。とはいえ商売柄装訂には人一倍関心はあり、どちらかといえば豪華版より瀟洒なフランス装などのほうが肌に合う。
 第一書房の本なら総革三方金天模様入などより、小口と地をアンカットにした萩原朔太郎の『恋愛名歌集』のほうが好もしい。最近ある古書随筆の本を編集した折りに、カバーデザインをデザイナーと相談した結果、古本を数冊積み上げて撮影しようということになった。これは間村俊一さん装訂の『美酒と革嚢 第一書房長谷川巳之吉』(長谷川郁夫著・河出書房新社)をヒントにしたもので、うちにある古本を十冊ばかりデザイナーに送って撮影してもらったのだが、なかにこの朔太郎の『恋愛名歌集』も含まれている。タイトルの背文字もどうにか読めるのでお気づきになる方もあるかと思う。


 判型では、以前書いた高祖保の詩集『雪』(文藝汎論社)のような横長のサイズの本が好きだ。永井龍男『文壇句会今昔』(文藝春秋)、田村義也『のの字ものがたり』(朝日新聞社)、それに『地名俳句歳時記』(中央公論新社)などがそうで、すこし古い本になると水原秋櫻子の『雪蘆抄』(中川一政装訂、石原求龍堂)や堀辰雄の『晩夏』(甲鳥書林)も横長サイズで気に入りの本。『晩夏』は一度電車の網棚に置き忘れてもう一度買い直した。堀辰雄の本でいえば、野田書房版『風立ちぬ』と江川書房版『聖家族』は、いずれも所蔵しているのは近代文学館の復刻版だが、レプリカでその素晴しさは充分伝わる。
 最近入手して感動したのが塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』の復刻版。書肆稲妻屋より初刷五百五部で開版。糸で縢った和本仕立の袋綴じで、誤植や脱字、新字・正字の混淆といった原本の誤りもそのままに再現されている。『水葬物語』はむろん何種類かの刊本で持っているけれども、百二十部限定・メトード社刊のオリジナルはいままで古書店などで目にしたこともない。復刻版を掌に載せてその思いがけない軽さに、おおこれが水葬物語かと胸が熱くなった。復刻版といえども安くはないが、それでも原本の古書価のおそらく百分の一以下の値段だろう。
 上述の近代文学館の復刻版など、オリジナルと殆ど寸分違わぬものが古書店で三桁の値段で手に入る。わたしなど、復刻版のほうが美本であるだけむしろいいと思うのだが、愛書家はそうは思わないのだろう。古ぼけていても(いや、古ぼけているからこそ)オリジナルに纏わるアウラこそ価値の源泉であるということか。どんなに精巧につくられた複製でも、いま・ここにしかないという芸術作品特有の一回性は失われてしまっている、とかつてベンヤミンは書いた。書物とは抑々が複製品であったはずだが、稀覯本や限定版はその稀少性に一回性に通ずるアウラが纏わっているということだろう。
 以前、どこかでこういう話を読んだことがある。ある古書の蒐集家が世の中に二冊しかない本の片方を所持していて、残りのもう一冊をどうしても手に入れたいという。一冊持っているのだからいいじゃないかと思うのが門外漢の考えで、どうしてもう一冊手に入れたいのかと問うた人に答えて曰く、焼き捨てるためです。
 ベンヤミンエドゥアルト・フックスについて論じた文章のなかで、フックスが芸術の歴史のなかに大衆芸術を正当に位置づけえたのは、蒐集家としてのフックスの狂気と紙一重の情熱によるものだった、と書いている。その情熱をベンヤミン錬金術師の欲望と重ね合わせてもいる。金を作り出そうとする錬金術師の卑俗な欲望が化学の発展をもたらしたように、フックスの蒐集欲が大衆芸術の研究に結実した、と。J・ファウルズ/W・ワイラーが描いた、紙一重を踏み越えてしまった男の末裔たちは現代の日本にも事欠かない。焼き捨てると答えたコレクターは、さて紙一重のどちらの世界にいるのだろうか。