『石榴抄』小感――結城信一と会津八一(その2)


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  「私のこの小文の究極は、八朔先生と、きい子との結縁(けちえん)に就いて語ることである」と、冒頭近くで述べているように、結城信一の『石榴抄』は、八一が絶唱「山鳩」に詠った養女きい子と暮した日々を描いたものである。
 曾宮一念が随筆「落合秋草堂」で「独身であつた八朔に、しま、きい、らん、の三女がかしづいたが、外に女の出入りはなかつた」(『石榴抄』引用による)と書いた「きい」、すなわち会津八一の実弟高橋戒三夫人の末妹、高橋きい子が秋艸堂に招かれたのは昭和八年。『石榴抄』には「秋草堂に招かれたのは昭和六年で、きい子は二十歳、以来十四年間、八朔先生に仕へることになる」と書かれているが、これは結城の用いた資料に拠るものであろう。
 工藤美代子は『野の人 會津八一*1で、八一の弟子で雑誌「太陽」(博文館)の編集者であった料治熊太の『會津八一の墨戯』に「昭和六年」と書かれているがこれは誤りで、昭和八年三月二十一日附の八一の戒三宛ての手紙に、「令妹」を早く寄こしてくれとあることから八年に違いなかろうと推測している。また、植田重雄は浩瀚な伝記『秋艸道人會津八一の生涯』*2で「昭和七年秋頃から(略)ほんの六ヵ月程、秋艸堂の家事を看るということで上京してきた」と書いている(但し、巻末の略年譜では昭和八年)。七年秋から翌年にかけて半年ほど八一の世話をし、いったん帰郷してまた上京したのかもしれない。八一の戒三宛ての手紙を参看すれば事情は明らかになるかもしれないが、いまはその余裕がない。
 きい子が亡くなったのは昭和二十年七月十日、八一の日記によれば午後四時頃である。享年三十四。昭和八年から十二年間(足掛け十三年)、八一と暮したのであるから、秋艸堂へ来たときは二十二歳か。工藤美代子は、キイ子明治四十五年生れ、二十二歳の時、としている。


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 戸籍調べはこのへんで止して『石榴抄』に戻れば、「八朔先生の古い友人」の画家小杉放庵の「きい子嬢は二十歳で博士の許に来て、十四年の間、家事万端、接客、秘書の役、あのかんしやく持ちの主翁に仕へたこと、なみなみの話ではない」の言葉のように、「日夜の多忙に追はれてゐるうちに、いつしか病みがちになつてゐた」。やがてきい子は結核となり入院する。この頃(昭和十四年)結核は国民病と呼ばれ、年間十数万人の死者によって死因の第一位を占める難病だった(この年、皇后の令旨により結核予防会が設立されている)。
 一方、偉丈夫の「八朔先生も六十代になつてからとかく故障が多く、糖尿病の方は軽くなつたものの、頻りに痼疾や老いを訴へ」、昭和十八年、六十二歳の砌には学生を引率して行った奈良で発病し、帰京後もながらく病臥している。
 時間は前後するが、退院したきい子は八朔先生の弟子の住む信州へ静養に行く。信州で八朔を思いやるきい子の描写が『石榴抄』の中盤の山場になっている。


 「その日、神社の森へは行かずに、古い戸倉の静かな町をきい子は歩いた。
  千曲川の向うには、温泉宿が軒をならべてゐる一廓があるが、このあたりはひつそりしてゐる。町の中央を、細い流れが走つてゐる。流れの音が、あたりに仄かに木霊する。
  片側に、石榴が何本も生えて、鮮かな赤い花がみだれてゐた。
  さういへば、ときい子は、溜息をついた。
  「先生の歌集には、赤とか、紅(くれなゐ)とか、朱(あけ)とか、そんな色が出てくる歌が多かつた気がする。淋しがりやの先生の、あこがれだつたのだらうか……」 」


 きい子は八朔先生から聞かされたことのある画家中村彝(つね)のことを思う。八一は曾宮一念に連れられて一度だけ中村彝を訪ねたことがある。「晩年の傑作「老母像」のモデルになつた、岡崎さんといふ老婦人」が病臥している彝の看護をしていた。きい子はその日の日記に「岡崎さんが、そばに居てあげて、よかつた」と書く。そして明け方起きだして、八朔先生に長い手紙を書く。


 「わたくしは中村さまほどの重い病人ではございませんので、帰りましたあとも、長く長くおそばにおかせてくださいませ。もう二度と、お客が多いから、とか、食事をするひまもないほどいそがしくて、とか、つかれた、とか、そんなことは一切申しません。かぞへきれないほど先生からお叱りをうけたり、受けないまでも苦がいお顔を見せられたりなどございましたけれど、そんなことのないやうに、ひたすらつとめます。(略)先生の昔のお歌のかずかずを、こちらで読みかへしてをりますうちに、先生の深いさびしさがおどろくほどによくわかりました。来客の多いのもお仕事の都合とぞんじますが、先生のもともとのさびしさが、お客さまをよろこび、お客さまをもてなすことにつくす、といふことになられたのだと思ふやうになりました。」


 むろんそう明記されてはいないが、きい子は八朔先生の「岡崎さん」になろうと思いさだめたのであろう。
 高橋きい子は新潟の資産家の娘で、高等女学校のときに生家が没落する。高橋家の長女と結婚し、婿養子となった八一の弟戒三に経営の才がなかったためだと工藤美代子は書いている。きい子は優秀な成績であったが進学をあきらめ、かといって姉夫婦が始めた養鶏業を手伝う気にもなれず、やむを得ず八一の家へ家事手伝いとして奉公した。「気難かしくて、感情の揺れが激しい會津八一に、キイ子は献身的に仕えた。実は、経済的な基盤を失ない、帰る実家もなかったからこそ、周囲の人間が驚嘆するほどの忍耐力を示したのではなかったろうか」と工藤は推測する。
 それとともに、自分ひとりでは身の回りのことが何もできない八一に全面的に頼られているという思いと、そして、たんに気難しい老人というだけでない、八一の多くの人を惹きつける魅力も大いに作用していたのだろう。
 堀口大學は八一の写真を見て「これは強い人の顔だ、そしてまた不安におののく弱い人の顔だ。……秋艸道人は、強気と弱気を同時に心中に蔵した人なのだ。ところが実人生にあっては、強気は排他となって現われ、弱気は不安となって現われる。排他は心地よい自己陶酔だが、この人のそれには孤独という不安が裏づけされている」 *3 と書いている。植田重雄はこの大學の評言に、「道人の弱気なさびしがり、遅疑逡巡は感情の深さと多面性であろうし、強情、排他、豪気は意志の強さによる」と附言している。先に掲げたきい子の手紙にも、そうした八一の二面性への洞察がうかがえるといっていい。
 いずれにせよきい子は、絶唱「山鳩」に詠われることによって「神話化」されることになるのだが、『石榴抄』もまたその神話のひとつ、あるいは神話化に与って力のあった作品といえるかもしれない。そして、結城信一がこの夭折した薄倖の女性に、結城信一的ヒロイン像を重ねて見ていたのは間違いないと思われる。

*1:工藤美代子『野の人 會津八一』新潮社、二〇〇〇年

*2:植田重雄『秋艸道人會津八一の生涯』恒文社、一九八八年

*3:同上