火の雉子、水の梔子


 先頃法事で田舎へ帰つた。両親ともに他界し、生家に私の居処はもはやない。学生時代に買ひためた本だけが、かつて私がそこにゐた証しのやうに埃をかぶりつつ場処を塞いでゐる。いまの私の手狭な棲まひにこれ以上よけいな本を置く余裕はない。生家に置き去りにした雑本はいづれすべて処分しなければなるまいが、数冊これだけはと思ふ本だけを鞄に入れて持ち帰つた。「叢書 火の雉子」と「叢書 水の梔子」。
 「火の雉子」は短歌、「水の梔子」は俳句、全巻に塚本邦雄が解題を寄せる詩歌の叢書で、限定三百部、識語署名入。菊判変形、四十頁余の冊子で、塚本邦雄の盟友政田岑生の編集で湯川書房より昭和四十八年七月、寺山修司『わが金枝篇』を皮切りに開版された。私の所持するのはともに三冊のみで、書名を挙げると、火の雉子が山中智恵子『蜻蛉記』、春日井建『夢の法則』、原田禹雄『白き西風の花』。水の梔子が寺山修司『わが金枝篇』、高橋睦郎『舊句帖』、金子兜太『早春展墓』。
 いづれも最初の二冊までは題簽を貼つた函入りであつたが、三冊目から、すなはち『白き西風の花』と『早春展墓』とはカバー装となつてゐる。そして、それぞれ互みに一月おきの刊行がやがて間遠となり、『白き西風の花』が四十九年八月に刊行された後は五十一年十二月の馬場駿吉『薔薇色地獄』まで空白の二年余を閲する。
 塚本邦雄全集別巻の年譜に拠り、その後の刊行書目を挙げれば、五十二年三月に『山川蝉夫句抄』、同年十二月に鈴木六林男句集『國境』、そして翌る五十三年一月の安永蕗子歌集『槿花譜』を最後に刊行は杜絶する。完結すれば十一冊一対の華麗な詞華集となつた筈で、双つの叢書それぞれに全冊を収蔵する化粧函が余白も虚ろに残つてゐる。
 当時この叢書の刊行をなにかで知つた私はさんざ迷つた末に全巻を予約注文した。一巻の定価が三千円、いまならおほかた一万円近くはするだらう。貧書生には過ぎたる贅沢で、どうやつて代金を調達したのかいまではもうさだかでない。短歌に、といふより塚本邦雄に惑溺してゐた私は、いざとなれば高利貸しの老婆を撲殺してでも金を工面したにちがひない。だが、刊行が途絶えた二年余の空白の間に大学を卒へて引越してしまつたため本意なく予約を反故にする結果となつた。


 昭和五十二年、その湯川書房から「季刊 湯川」といふ小冊子が発刊された。創刊号の筆者は、加藤周一、壽岳文章、宇佐見英治、小川国夫、肥田皓三、生田耕作。第二号には、塚本邦雄が執筆してゐる。その頃、書評紙に編集者として勤め始めてゐた私は、おそらくこの冊子の紹介記事を書いたのだらう、手許の同誌には政田岑生から届いた手紙が挟まつてゐる。冊子巻末にこの叢書の広告が載つてゐるのでラインナップを掲げておく(誤植は適宜正す)。


<叢書 火の雉子>
岡井隆『《H》アッシュ』、葛原妙子『薔薇窓』、春日井建『夢の法則』、山中智恵子『蜻蛉記』、原田禹雄『白き西風の花』、安永蕗子『槿花譜』、佐佐木幸綱『燃えず燃ゆ燃えよ』、島田修二『冬行集』、本田一揚『あ行』、栗林さよ子『堕ちたる天使』、塚本邦雄『爛爛』


<叢書 水の梔子>
寺山修司『わが金枝篇』、赤尾兜子『遂木』、楠本憲吉『隠花植物』、馬場駿吉『薔薇色地獄』、林田紀音夫『弦』、高柳重信『山川蝉夫句抄』、金子兜太『早春展墓』、津田清子『分水嶺』、本郷昭雄『瞳孔祭』、鈴木六林男句集『國境』、高橋睦郎『舊句帖』


 因みに未刊書目のうち、葛原妙子『薔薇窓』は夙に昭和三十一年、同題で「短歌研究」に三十首が発表されてゐ、四十九年に三一書房から上梓された家集にも六歌集とともに収録されてはゐるのだけれども、一集としては五十三年になつて漸く白玉書房より刊行がなつた。葛原妙子は白玉書房版の跋文に「率直に言ふならばこの集は何度も企画されながら出版の時機を逸し、(略)省みなかつたわけではないがなにか哀切である」と記してゐる。第八集『鷹の井戸』の後の公刊となるが、序数歌集としては第四集に数へられる。
 楠本憲吉『隠花植物』はさらに旧く、昭和二十六年、限定百二十部の豪華本で世に出た処女句集で、三十一年に大雅洞より九十五部限定で再刊、さらに五十三年に深夜叢書版が、翌五十四年に妣田圭子女史版が出てゐる。私の所持してゐるのは五十七年、政田岑生の書肆季節社から五度目に公刊されたもので、若草色の上製本体を深緑の帙にくるみさらに堅牢な同色の布貼函に納めて、いつもながらの美麗な装本である。別刷栞に附された「顕花年代記」と題した塚本邦雄の解題によれば、初刊の昭和二十六年は塚本の『水葬物語』の刊行年でもあり、前年の二十五年には高柳重信の『蕗子』の刊行と、第一句歌集が踵を接してゐ、「後年、私は心の中で、ひそかに三人兄弟詩歌集と呼び、その奇縁を懐かしむことがあつた」とある。
 安永蕗子『槿花譜』は『安永蕗子作品集』(雁書館)の年譜によれば五十三年五月、書肆季節社より刊行されたとある。ともあれ、この双つの叢書が完結してゐれば稀に見る絢爛たるアンソロジーとなつた筈で、杜絶したのは惜しみても余りある。古書店では寺山修司『わが金枝篇』が四〜七万円、六冊揃いで十万円余の値段がついてゐる。


 われにもかつて麝香の時在りしを精悍の日日在りにしを  春日井建『夢の法則』


 塚本邦雄は解題「逆夢祈願」にかう記してゐる。


 「『夢の法則』は春日井建の未刊歌集とも言ふべきものである。『未青年』と重なりつつそれに先立つ詩篇、歌群は、彼のこの頃すでに鎖された瞼のうちに醸される幻影の美酒、瞳孔に閃くあやかしの影に充ち満ちてゐる。他者が卒然と見るならば、欲するもののおほよそは一顰一笑によつて思ひのままとも思はれる美の寵童が、その憶測を打消すかに、「われにもかつて麝香の時ありしを」と過去形で嘆くのは由由しい。二十歳に満たぬこの優雅にして聖なるエラガバルスの朋は、その時麝香はおろか没薬、乳香、蕃紅花(サフラン)に埋もれ、愛と死を狩るに臨んでは十分に精悍だつたはずである。三句一音五句二音を欠くこの不思議な吃音的詠唱は、しかしながら告白の真実であることを囁いてやまぬ。たとへばほぼ年を同じうした『金槐集』の作者が「儚くてこよひ明けなば行く年の思ひ出もなき春にや逢はなむ」と歎じたことを想起させる。建の回顧と実朝の予感は表裏一体であつた。めぐりあふ春、その未来さへすでに何一つ輝くものはないであらうといふ絶望の先取と、逸楽も奢侈もはるかな記憶の中にしかないといふ現在への愛想づかしは、若さを発条としたはづみのゆゑになほいたましい。」


 塚本邦雄の『爛爛』は、昭和五十三年「短歌研究」に同題十首を掲載、翌年第十二歌集『天變の書』に収められることとなつたが、「火の雉子」のおそらくは掉尾を飾つて刊行されてゐたとしたら、巻末の解題もやはり塚本自身が書いたのだらうか。


 あしたありゆふべありけり胸中に一粒の火の言葉ふふみて   塚本邦雄「爛爛」