田端雑感――矢部登「田端抄 其肆」を読む



 矢部登を知る人ぞ知る文筆家と呼べば失礼にあたるかもしれない。結城信一の(市井の)研究者として著名であり、結城に関心をもつ人で矢部登の名を知らない人はいないだろう。リトルプレスからとはいえ著書も少なくない。わたしも数冊を架蔵しているが、面識をえてから贈ってくださる私家版の冊子「田端抄」(矢部さんのお住まいのある北区田端にまつわる文学閑談である)も四号を数えた。
 このたび開版された「田端抄 其肆」では芥川龍之介の主治医であった下島勲(書画をよくし、空谷と号した)から先頃岩波文庫から句集のでた井上井月(空谷が編んだ井月全集を底本にしている)へと話柄が移り、発句つながりで空谷と懇意であった久保田万太郎にフォーカスし、芥川も下島も去った田端にひとり佇む万太郎の孤影を印象深く書きとめる。
 この随筆がユニークなのは、書物随筆でありながら(空谷山房随筆集『人犬墨』をはじめ引例される本がすべて往時の刊本でその殆どを架蔵されているのに歎称する)書物を渉猟するだけでなくその地をその都度じっさいに歩いていられるところにある。


 「『井月句集』の頁を繰っていたら、「芥川龍之介終焉の前後」の一節が甦ってきて、急にまた、中坂から芥川龍之介旧居跡の道をあるいてみたくなった。あいにくの雨であったが、思いきって、家をでた。(中略)中坂をあがって龍之介坂の坂上にたどりつくと、雨が吹きつけてきて、芥川龍之介や空谷翁がでてきそうなあたりはもう夕暮れどきであった」


 わたしもかつて矢部さんに案内していただいて、敬愛する先輩編集者藤田三男さんといっしょに田端を歩いたことがある。「田端は坂の多い町である」と「田端抄 其肆」の冒頭にあるように、坂をいくたびも上り下りして一時間あまりを散策した。最後、日暮里月見寺の結城信一のお墓に詣でたのち、ちょうど催されていた不忍の一箱古本市をひやかして歩いた。芥川や犀星、朔太郎、菊池、堀ら文人や小杉放庵、山本鼎板谷波山ら画家、陶芸家たちがコロニーをつくった往時の俤は田端にもはや求むべくもない。むろんそれはひとり文士村田端にとどまるものでないが、幼い頃からこの地に暮してこられた矢部さんにその思いはいっそう強いだろう。矢部さんが書物のなかに田端を尋ねるのも、畢竟、失われたものへの追憶が然らしむるところかもしれない。


 岩本素白が別名で書いた少年向け伝奇小説に「笛吹明宗」がある。大正期に出版された「中学生」という雑誌に発表されたもので、古書展でその雑誌を発掘した保昌正夫によれば王朝藝譚「笛吹明宗」の末尾は以下のごとくであったという。


 「この不思議な楽人は、その後も自分の藝術を、心置きの無い少数の人人に発表するほかは、堅く秘め隠して彼の一生を終つて仕舞つた」


 保昌正夫は「これはそのまま先生の生涯でもなかったか、と想わざるをえなかった」と記し、こうつづけている。
 「先生はみずから「知られざる人」の境涯に立たれた。しかし、それはまた「知る人ぞ知る」の人生でもあった」*1
 保昌正夫を師とあおぐ矢部登もまた「知られざる人」の境涯に立つ素白の眷属のひとりであるといえば、かれはあの柔和な顔に少年のような含羞を浮かべるにちがいない。

*1:藤田三男編『保昌正夫一巻本選集』河出書房新社、2004