胸の砥石に研ぐ――小柳素子歌集『水あかり』を読む



 最近読んで感銘を受けた歌集について書いてみたい。小柳素子の第五歌集『水あかり』。
 「槻の木」の師、来嶋靖生の跋文に曰く「この人は背筋正しい文語脈の歌を詠もうと心がけているかに見える。いまこの世代でこれだけ文語の語法を自らのものとし、使いこなしている人は数少ない」。わたしの感銘も文語の丈高いしらべに存する。
 歌集は四つのパートに分かれており、「1 花の浮橋」の冒頭「雨降花」と題した十一首より――。


  摘みとれば雨の降るとふむらさきの蛍袋の花のひそけさ


 蛍袋はキキョウ科の多年草で初夏に白か紫の釣鐘形をした可憐な花をひらく。梅雨のころに咲き、摘み取ると雨が降るという言い伝えから雨降花の異名がある。
 一首は言い伝えをそのまま詠んだかのようでこれ見よがしの技巧などないかに見えるが、ことばをあやつる修練の跡は紛れもない。「摘みとれば」から「むらさきの」までは「蛍袋」に掛かる序詞、下の句は「は行」の頭韻でひそやかな花のイメージを音でつたえる。なにより歌のすがたがよい。漢字と仮名の使い分けも申し分ない。


  賜ひたる言葉噛みしめ帰るさに三葉躑躅の花仄あかり
  つきつめて念(おも)ひいたるかほつかりと夕顔の花すでに咲(ひら)ける


 この作者は花を詠むのがじつにうまい。常日頃より花や植物にひとかたならぬ関心を寄せているのだろう。前者は、歌会で師からたまわった講評を思い出しながら帰路についていると、どこかの家の庭の三葉躑躅がふっと月明りに浮かび上がっているのが目についた、そんな情景を思い浮べる。後者もまた前者同様、胸内の思いと花の対比が流麗なしらべにのって詠われる。「ほつかりと」が効いている。


  ときじくのかぐのこのみの花ならむ眼を伏せ帰る夜道に匂ふ


 「雨降花」につづく「花を浮かべて」より一首。「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」は不老不死の霊薬とされる木の実として古事記にしるされる橘の実。夜道の澄み切った空気のなかにふっと柑橘の香りがただよったと作者はいう。「眼を伏せ帰る」に胸内の思いが込められている。「ときじくのかぐのこのみ」がこのように見事に歌語として用いられた例をわたしは知らない。


  向きあへば紗の布かけてものを言ふさびしきわれと人に知らゆな
  ひそかにを胸の砥石に研ぎきたるものは隠さむ雨降花に


 「雨降花」の一連より。人は誰しも胸の奥処に屈託をかかえている。ときに打ちひしがれもするけれど、それに押しつぶされまいと自らを奮い立たせて日々を生きている。「胸の砥石に研ぎきたるもの」はこの作者にとって守るべき「最後の砦」のようなものをさすのだろう。「知らゆな」は知られるな、の意。受身の助動詞ゆ+終助詞な。「思ほゆ」の「ゆ」も同じ(自発の意)。万葉集に次の歌がある。


  青山を横ぎる雲のいちしろく我れと笑まして人に知らゆな    坂上郎女


 「ひそかにを」の「を」は詠嘆の間投助詞。使用例として岡井隆の次の歌などがよく知られる。


  旗は紅き小林(をばやし)なして移れども帰りてをゆかな病むものの辺に


 『水あかり』にはこの間投助詞「を」を使った歌が少なくない。


  白紙にを戻さむ否と迷ひつつ貴船菊咲く道歩み来つ
  金木犀の花咲く頃には帰りたし車椅子にを乗りて思へる
  彼岸にを行きても念(おも)ひ忘れまじ橋の上より見る水あかり


 「を」は、ただに声調をととのえるのみでなく、そこに作者の思いの強さをほんのわずか付け足す絶妙な助詞であると思う。岡井隆の上掲の歌など、あえて字余りにしてまで「を」を加えて思いを強調している。


 小柳素子はかつて師を論じた文章で、「来嶋靖生は「風」の歌人である」と書いたことがある。その顰みにならえば、小柳素子は「刃」の歌人である。第四歌集『獅子の眼』の巻頭に「刃のひかり」の一連がある。


  わがうちに冷たき目持つわれのゐて光る刺刀(さすが)を次々放つ
  いつよりか胸の狭間(はざま)にかくし持つ刃のひかり見咎められつ


 胸内の「冷たき目」は他人にむかって放たれる以上に自らを律する刃である。内省というにはあまりに鋭く、それはわが身をも切り刻んでやまない。だがその刃は小柳素子に手放すことのできない「最後の砦」でもあるのだ。


  しろがねの鋭き光戻り来よ小腰かがめて肥後守研ぐ  
  詰(なじ)られし日のかなしみはわすれまじ出刃包丁をこごまりて研ぐ
                               (『獅子の眼』)


 ときに気弱になることもあるけれど、刃は決して錆びつかせてはならぬ。その凛とした意志が『水あかり』の次の一首にあらわれている。


  逆らはぬわれと思ふな身のうちに常に携ふ小太刀一振


 「武士の娘」のこころね、である。それは次の歌の思いを底に秘めているからこそ、いっそう凛々しくひびくのである。


  紫のあふちの花の盛りなりこの世おだしく生きたきものぞ


 「生きたきものを」の詠嘆でなく終助詞「ぞ」にその希いが込められていよう。最後にもう一首掲げておきたい。


  胸底にゆたにたゆたにたゆたひて歌心湧くよき歌生(あ)れよ


 「寛にたゆたに」に「たゆたひて」をかさねた畳語法が見事。空穂の「ゆれゆく如くゆれ来る如し」を想起した。
 よき歌生れよかし。


水あかり―歌集 (槻の木叢書)

水あかり―歌集 (槻の木叢書)