マリオ・ジャコメッリといえば、雪のなかで神学生たちが輪になって踊っている写真が有名で、白と黒のハイコントラストの「無垢の歌」(ブレイク)ともいうべきこのシリーズ「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」は、このたび開催されたジャコメッリ写真展(東京都写真美術館)の白眉であったが、ほかに今回新たに紹介された「シルヴィアへ」というシリーズのバストショット、クロースアップと画角を変えた三枚の女性のポートレイトの意志的な眼差しが強く印象に残った(写真参照)。
「シルヴィアへ」というタイトルは、ジャコモ・レオパルディの同題の詩よりとられたもので、写真にはその詩の抜粋が添えられていた。
「シルヴィアへ」
シルヴィア、今も憶えているだろうか
あの、きみの限られた命のときのことを
きみのにこやかで、そぞろな目のなかで
美しさがまばゆくかがやき、
そしてきみが、嬉しげに思いつめて、青春の
門出にのぼろうとしていたときのことを?
ひっそりとした部屋や、
あたりの通りが、きみの
くり返される歌に響いていた、
きみが手仕事に根をつめて
腰かけ、心に懐いたあの漠とした
先行きに満ち足りていたあいだにも。
それは匂いたつ五月のことで、きみは
そうして日を過ごしていた。
―以下略― (岡本太郎訳、写真展図録より)
レオパルディは「十九世紀のイタリア最高の詩人、というよりペトラルカ以後の最高の抒情詩人」(脇功氏)というべき存在だが、現代の日本ではそれほど知られてはいなかった*1。だが幸い2006年に詩集「カンティ」とエッセイ集「オペレッテ・モラーリ」を一冊にまとめた大冊が脇功・柱本元彦両氏の訳によって刊行され*2、ようやくその文業の真髄が遍く知られるところとなった。
イタロ・カルヴィーノはハーヴァード大学のノートン詩学講義の第1回に「軽さ」をテーマとし、レオパルディにふれてこう語っている*3。
「レオパルディは、生存の耐えがたい重さについての絶え間ない思索のなかで、到達し得ない幸福の観念に軽やかさのイメージを与えています――鳥たち、窓辺にうたう女性の声、澄みわたる大気、そしてとりわけ月です。
月は、詩人たちの詩行に顔をのぞかせるや否や、軽やかさの、宙吊りの、また静寂と沈黙に満ちた魅惑の印象を伝える力をつねに発揮してきたものでした。初め、私は今日のこの講義をすべて月にあててみようと思ったほどでした。つまりさまざまな国のあらゆる時代を通じて文学に現れる月を跡づけてみよう、と。ついで、月はすっかりレオパルディに任せようと決心したのでした。というのはレオパルディの奇蹟は、月の光に似るほどまでに言葉から重さを取り除くことにあったのですから。彼の数々の詩に現れる月は、ほんの何行かを占めるだけですが、それだけでも十分、作品全体をその光で照らし出し、あるいはその不在の影を投げかけることができるのです。」
そしてカルヴィーノはレオパルディの詩の一節を数篇引用するのだけれど、ここではそのなかの二篇のみ掲げておこう。
夜は心地よく明るく晴れて風もなく、
屋根の上、野辺の真上に穏やかに
月は懸かって、遠く澄みきった
山の一つ一つを浮き立たせている。
――「祭りの日の夕べ」より
はやくもなべての気配は暮れなずみ、
ふたたび真青に空は晴れ、ふたたび影は
丘の峰、屋根の軒より落ちかかる、
今のぼり出た月影の白むとき。
――「村の土曜日」より
カルヴィーノの当初の思惑どおり「さまざまな国のあらゆる時代を通じて文学に現れる月を跡づけて」みようとするなら、レオパルディの上掲の詩がはるか時と処を隔てて次のような歌とみごとな照応をみせていることに気づかないではいられないだろう。
入相の声する山の陰暮れて花の木の間に月出でにけり 永福門院
花鳥のほかにも春のありがほに霞みてかかる山の端の月 順徳院
貴船川玉散る瀬々の岩波に氷をくだく秋の夜の月 藤原俊成
カルヴィーノは講義の第3回目に「正確さ」を掲げ、「漠たるもの」を称揚するレオパルディの詩学について語っている。レオパルディが「漠たるもの」として数え上げる以下のリストは清少納言の枕草子をわたしたちに思い出させる。
「……太陽も月の姿も見えず、どこから光が射しこんでいるのかわからない場所で目にする日光や、あるいは月の光。ただ一部分だけがその光に照らされている場所。またその光の反射と、それによって生じるさまざまな物質の効果。蘆の茂みのなかとか、あるいは森のなかや、またよく窓の閉ざされていない露台のように、こぼれて射しこんだ光がぼんやり遮られて、ものの見分けがつかないような場所。直接、射しこんで照らし出すのではなく、どこか他の場所なり物なり、等々に当たった光が反射して拡がっている場所とか物等々に見る光。……」
レオパルディはこうした「漠とした美」に到達するために「この上もないほど精密で入念な観察力」をもってしたとカルヴィーノはいう。「漠としたものの詩人とは、敏捷・確実な目と耳と手をもって、もっとも繊細微妙な印象を捉えることのできる、的確緻密の詩人だけがなることのできるもの」なのだと。十九世紀イタリアの「思索する詩人」と平安朝歌人たちとの精妙なるコレスポンダンスに、おそらく詩学の要諦なるものがひそんでいるにちがいない。
カルヴィーノは「イタリア語は《vago》[「漠然とした・はっきりしない」]という語が同時に「優雅な」「魅惑的な」という意味をも持つ――恐らく――唯一の国語です」と書いているけれども、日本の古語に通じていたら「唯一の」とは言わなかっただろう。そしてまた、レオパルディの詩句「Vaghe stelle dell’orsa 熊座の漠然とした星」*4からタイトルをとったヴィスコンティの映画『熊座の淡き星影』のヒロイン、クラウディア・カルディナーレの人を射抜くような鋭い眼差しは、「シルヴィアへ」のそれとどこか通じるような気がしないでもない。
生存の耐えがたい重さに、到達し得ない幸福の観念に、軽やかさのイメージを与えること。カルヴィーノのノートン詩学講義「新たな千年紀のための六つのメモ」は二十一世紀を生きるわたしたちにとってきわめて示唆的といわねばなるまい。
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*1:脇功氏は訳者あとがきに、柳田泉によれば日本にレオパルディの名が初めて紹介されたのは漱石の『虞美人草』(明治四十年)のなかであり、昭和二年に刊行された柳田の翻訳になる『レオパルヂ集』(「世界大思想全集」第十四巻)を読んだ三島由紀夫が『春の雪』(「豊饒の海」)に、「表紙に金の箔捺し」を施したレオパルヂの本を登場させたのだろうと書いている。
*3:カルヴィーノ『アメリカ講義』米川良夫・和田忠彦訳、岩波文庫
*4:「想い出」の冒頭。『カンティ』から脇功氏の訳で最初の数行を掲げておこう。「美しき北斗の星よ、思いだにせず、/父の園生の上に輝くおまえの姿を/ふたたび眺め、幼いころに住み慣れて、/わが喜びの終わりも知った/この家の窓辺でふたたびおまえと/語らうことになろうとは。/かつてはおまえや、おまえの友なる星々の姿を眺め、/いかに多くの幻影を、いかに多くの/夢を心に育んだことであろうか。」