心の降りる場所――横山未来子歌集『花の線画』



 昨日(4月26日)の朝日新聞朝刊に、横山未来子さんの『花の線画』(青磁社)が第四回葛原妙子賞を受賞したと発表されていた。以前たまたまこの歌集を読み感心していたのでこの機会に再読し、あらためて感銘を受けた。そのことについてふれてみたい。
 わたしはこのひとについてほとんど知るところはない。この歌集によって初めて知った歌人であるといっていい。歌集に附された略歴を見ると「心の花」に所属し、96年に第三十九回短歌研究新人賞を受賞、これまでに二冊の歌集『樹下のひとりの眠りのために』『水をひらく手』と『セレクション歌人30 横山未来子集』があり、『花の線画』が第三歌集であると知れる。三十代の新鋭歌人である。
 『花の線画』の歌の世界はそう広くはない。歌材はほとんど身のめぐりに限られている。草花、風、雨、陽のひかり、地をうごくもの、空をかけるもの。よろこびやかなしみといった感情もそうした身のめぐりのくさぐさにことよせて詠われる。その意味では和歌の伝統につらなる歌というべきだろうが、それでいてまぎれもなく現代の短歌であるのは、そこにはたらく感受性があきらかにいまの時代を呼吸しているひとのものだと思わせるからである。
 試みに歌集に登場する動植物の一部を抜書きしてみよう。
 猫、雀、蜘蛛、烏、虻、蝶、蜻蛉、蜉蝣、鵯、蠅、鳩、蜂、螢、蛾、燕、蟷螂、椋鳥、蛙、亀、蟻、兎、燕…
 花杏、蠟梅、銀杏、百合、躑躅、桜、柿、蛇苺、樗、沈丁花、萩、背高泡立草、木犀、柘榴、薊、梨、秋海棠、蔦、梅、芙蓉、欅、桐、杜若、無花果、睡蓮、紅蜀葵…
 こうして挙げてみるだけでこの歌集のたたずまいが窺われよう。注目すべきはこうした動植物や自然に仮托して感情を詠うときに、それらは光と影の位相において捉えられるということである。それがこの歌人の、あるいはこの歌集の特長であるといっていいだろう。たとえば、


 水に乗る黄葉の影よろこびは遠まはりして膝へ寄り来つ
 咲き重る桜のなかに動く陽をかなしみの眼を通して見をり


のように、「水に乗る黄葉」でなくその影に、「咲き重る桜」でなく動く陽に作者のまなざしはとどいている。それは草花にかぎることでなく、


 踵より離れぬ影をひきてゆく人びとの群れにわれも入らむか


のように人間を見るときにも着目されるのは影なのである。

 「心は」と題された一聯の歌を見てみよう。


 浅き皿に水浴みに来る鳥のごとをりをりこころ降るる場所あり
 壁にのこる蔦の蔓にも影うまれ朝は来りぬかなしむ子等へ
 対岸に昏れそむる樹をおもひつつ窓を覆ひつおのが夜のため
 覆ひえぬ顔のつめたき夕刻に絹のやうなる梅の香に触る
 壜のなかの油の白く凝る見てかへりたるなり泣きし記憶に
 表紙に花の線画ゑがかれたる文庫残してひとは帰りゆきたり
 羽収めて落ちながら飛ぶ鳥の影ゆだねむわれをわれの見ぬ日へ
 植樹されし枝垂れ桜の寒き枝にしばし薄紅色のかげ見つ
 なだらかに冬陽うつろひ手から手へやさしきものを渡されてゐつ
 隧道をいくつか通り来しやうにあかるく暗くなれり心は


 歌集の表題となった「花の線画」の語句をふくむこの一聯の歌は集中でとりわけ大きな意味をもっている。
 一首目、空から舞い降りてくる鳥のように折々心の降りる場所がある、と詠う。それはどこか。朝のひかりが蔦の蔓にあたって壁に生じる影に。陽が落ちて翳りはじめる一本の樹木に。ひと日のめぐりに、そして季節のめぐりに移ろう草花のすがたに作者の心は「降りて」ゆく。むろん草花にかぎりはしない。ひとも鳥も虫も生きとし生けるものたちが光と影のうつろいのなかに日々を生きている。作者の心の降りてゆく場所は、そうした光と影の移ろうところにほかならない。ときに明るくときに暗くなる心のうつろいが、手から手へ「やさしきもの」を渡されているようになだらかに移ろってゆく冬の陽ざしにかさねられる。
 こうしたきわめて繊細な感受性による歌は、かつては「微視的観念の小世界」であると批判されたりもした。政治の季節の余韻がさめやらぬ頃のことである。冒頭にしるしたように、この歌集の世界もけして広くはない。だが、作者がとらえた身のめぐりのささやかな世界はこんなにも豊穣である。


 風は遠きかなしみを連れめぐりゆき晴れやかに朝の戸を叩くべし