「が」という地獄



 このあいだアマゾンで本を注文したら、わたしの「買い物傾向」から類推したらしい4冊の本がかたじけなくも「推薦」されていた。そのラインナップを見てちょっとうなってしまった。4冊の本とは、フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』、ロベルト・ボラーニョ『通話』、山尾悠子『歪み真珠』、イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』。もちろんすでに持っている本ばかりだが、買ったのはアマゾンで、ではない。なにか見透かされているような感じ。
 さて過日、わが敬愛する先輩編集者Fさんと中央線沿線の焼鳥屋で一献傾けていたときのこと。むろん傾けていたのはFさんで、下戸のわたしは専ら食うほうに専心していたのだが、如何なるゆくたてか名文悪文の話になり、わたしが読んだばかりの久世朋子さんの『テコちゃんの時間』*1がいかにすばらしい文章で書かれているかを力説し、そのついでに、そういえば早稲田文学の増刊の対談で古井由吉さんが芥川の「歯車」について語ってらしてと言いかけたら、Fさんが「それは、がの地獄だろ?「新潮」に書いてたよ」。あわてて翌日「新潮」1月号を買いに書店へ走ることになったのだった。
 「『が』地獄」という古井由吉の「随筆」は、鴎外の史伝「細木香以」にはじまり、そのつながりで芥川の初期の短篇「孤独地獄」「老年」へと話が進む。これらは初期の作品というものの「老熟」の作ではないか、と思った古井さんが晩年の代表作「歯車」を読み返してみると、こは如何に。
 少年期から青年期にかけては読むたびに「目に見るものが別様に映った」が、中年期に入るにつれて文章の「不協和音」に熟読をさまたげられるようになったという。「とりわけ耳にさわるのは、「……。が、」という接続のあまりもの頻出である」。文章は追いつめられると「そして」と「しかし」の「あらわな反復に細るよりほかにない」、となかば身につまされていたけれども、このたび読み返してみると「この文頭の「が」こそ、この作品の基調音を叩く音鍵(キイ)であるように、聞こえてきた」。
 と、「歯車」に頻出する「が」をひろい上げてゆく古井由吉のエッセイは、たかだか五頁の短文ながら小説を、いや、文章を読むとは如何なることかという読書術の要諦を語って尽きせぬ感興を催す。こんな文章がこともなげに載っているのだから文藝誌は油断がならない。以下、ほとんど要約を拒むといった態の文章がつづくが、あえて要点だけ抜書きすれば、「が」は予兆、それも凶兆の合図のようにして反復される。が、「予兆は予兆としても深まらず、なぞらえの浅瀬にざわめいて流れる」といったなりゆきである。
 「これほどに剣呑な作品をとにかく全うした気力はともあれ、体力のほうはまさに尽きなんとしていたであろうことを、思わせられる」と古井由吉は書く。芥川の死はあたかも「が」の地獄に足をとられての溺死であるかのようだが、むろん、古井さんはそんな突拍子もないことを述べはしない。いやはや。あとは現物にあたっていただきたいと述べるのみ。いくら「新潮」といえどもこれだけの文は年にそう何度も掲載されるものではない。
 早稲田文学増刊の対談に戻れば、その「が」について古井さんはこう述べていられる。


 「あれは、なにごとかですね。「悪文」とひとは言うけれど、ぼくはあの小説の生命じゃないかと思った。」


 せっかく買ったので「新潮」のほかの文章も読んでみる。小説は面倒なので読まない。大江健三郎の「随筆」がある。ふむふむと読む。平野啓一郎の「随筆」も読む。津村記久子のは、読んでいると途中で雲行きが怪しくなってきて目次を見ると「随筆」と書かれていない。小説なんですね。
 で、つづいて水村美苗を読んで、魂消た。「ノーベル文学賞と『いい女』」という、川端康成の『雪国』の英訳についての「随筆」である。
 島村の「君はいい子だね」という科白が「君はいい女だね」に変わる、『雪国』の有名な一場面について、サイデンステッカーはこう訳していると水村美苗はいう。「君はいい子だね」はYou’re a good girl. 「これは問題ない」。問題は「いい女」で、 You’re a good woman. これは「君は正しい人だね」あるいは「あなたは正しい人です」であって「ふつうは、それ以外の意味をもたない」と水村はいう。
 以下、煩雑になるので水村美苗の文章について適宜カギカッコを附さずに引用する。
 英語の伝統のなかでそうした「good」という言葉の本質を照らし出すのは「新約聖書」の「善きサマリア人(Good Samaritan)」の寓話であり、good は「倫理的位相」をもつ言葉なのである。カトリックでは教会が「何が正しいか」を決めるが、プロテスタントでは「あたかも神の目から見たように、自分の良心に従って、何が正しいかを決め、それを「good」とした」という水村の言葉にしたがえば、大雑把にいってプロテスタントカトリックの2倍以上を占めるアメリカでハードボイルド小説が勃興したことの説明になるかもしれないが、まあ、これはわたしのたんなる思いつきである。サイデンステッカーの英訳にもどれば、これは、彼が「いい女」の意味を理解していなかったということではない。彼は英訳の序文で川端の「わずかな口調のちがい」の意味するところについて触れているのだから。水村美苗はいう。


 「原文をある程度尊重するために、「You’re a good girl」から「You’re good」へと移行すれば、「You’re good girl in bed」というニュアンスをもちえたかもしれない。だが、それもいい翻訳だとは思えない。「いい子」から「いい女」への移行は翻訳不可能なのである。」


 「いい女」にはむろん性的な意味がこめられていて、それは「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」や「この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていた」といった島村の表現に表われているけれども、サイデンステッカーはその「指」をhandに置き換え、「濡れて」をdamp(湿気て)――本来は身体の分泌物をさすmoistであろう、という――と訳し、あまつさえ「鼻につけて匂いを嗅いでみたり」という「非常に強烈な文章」を省略している、と水村は指摘する。結果、サイデンステッカーは『雪国』の「際どいエロティシズム」を中和することになったのだが(むろん確信犯だろう)、もしこれが「誤訳」されていなければ川端のノーベル賞受賞があったかどうかは「永遠の謎」である、と水村はアイロニックに述べている*2
 「ノーベル文学賞は文学が翻訳可能だという前提なしには成り立たないのである」と水村は断言する。そして「そのような前提は疑わしいものであることを、十分に認識しないまま、今日にいたっている」と。「言葉には翻訳可能性と翻訳不可能性という相反するものが必然的に内在すること――その事実を直視し、それこそが人類の恵みだと感じうること」、それが「希望」だ、と水村は最後にいう。
 ここでノーベル文学賞なんて政治的なショーにすぎない、と混ぜっ返すのはなしにしよう。「翻訳にかんしては真剣に真剣に思考すべきだ」という水村の愚直な「提言」に賛同するならば。
 文学の翻訳は「究極的」には不可能である。そんなことはわかりきったことだ。だが、とりあえずにせよなんにせよ、ロバート・ペン・ウォーレンのいうように「悪から善を作りださねばならない」のである。「なぜならほかに善を作る方法がないからだ」。
 さて、芥川の「歯車」はジェイ・ルービンさんによってRashomon and Seventeen Other Stories *3として英訳されているけれども、「が」はどう英訳されているのだろうか(まだ確かめていない)。おおむねbutだろうが、butの反復は英語版の読者にいかなる印象を与えるのだろうか。

*1:久世光彦との日々」の副題がある。平凡社刊。

*2:わたしは中学生の頃、中公版「日本の文学」で『雪国』を読んだが、むろん「際どいエロティシズム」なんてわかるはずもなかった。文学ははやり再読しなければ読んだことにはならない。古井由吉さんが「歯車」を繰り返し再読されるように。ちなみにわたしたちの世代にとって、中央公論社の青版「日本の文学」、赤版「世界の文学」シリーズの恩恵ははかりしれない。

*3:村上春樹の序文を附して、ペンギン・クラシックスより刊行。この日本語版が畔柳和代さんの翻訳で新潮社から刊行されている。『芥川龍之介短篇集』2007年。村上春樹の序文と芥川の作品はむろん日本語の原文のままである。