今月、岩波文庫の新刊で出た『辻征夫詩集』を買う。思潮社現代詩文庫版(正・続・続続)も全詩集の『辻征夫詩集成(新版)』も持っているのだけれど、「岩波文庫に1票」というつもりで購入する*1。
わたしのつくる本はたいがい票の集まらない本ばかりだが、3000部も出ればもって瞑すべしと思っている(儲からなくて会社には迷惑をかけているけれども。しかし、大西巨人が書いたように、わたしとして3万部、300万部、3000万部売れることを願ってはいるのである)。
それはさておき。
『辻征夫詩集』を買ってぱらぱらとページをめくって拾い読みし、なんというか、春の兆しを感じはじめたちょうど今頃の季節――庄司薫が『白鳥の歌なんか聞えない』で「金魚鉢の金魚が勢いよく泳ぎだしたんだよ」と書いたような、あるいは、目にはさやかに見えねども日差しのぬくみにおどろかれぬるといったような――に心がちょっとほどけてゆくような気分を味わった。それがわたしにとって辻征夫の詩を読む効用なのである。
辻さんに「詩を書く前には靴を磨くね」という一行ではじまる詩があって、アメリカのプロボクサーのデビー・ムーアが――かれは元フェザー級の世界チャンピオンで、試合で受けたダメージが元で若くして死んでしまうのだけれど、試合の前には一心不乱にリングシューズを磨いた。自分もそれと同じで、詩を書く前にはふだん履いてないような靴まで五足も六足も磨くんだ、という。
そこで1行あいて、「部屋を片付けていることもある」。それから電話をかける。それでもうやることがなくなると、部屋に閉じこもって、むねも、のども、めも、悲しみでいっぱいで、それで詩を書くかというと「書きゃしないんだよ」。地平線のずっと向こうまでのびているハイウェイ、たぶんアメリカの風景なんでしょうね、そんなふうに悲しみだけが「どーん」とつづいてて、そこにほおり出されているのが自分なんだ、というのですね。
で、詩は「ふりむくと/ことばの破片が/事故の痕跡みたいに落ちていることがあるけれど/それだけさ」と終わる。これは「ハイウェイの事故現場」という題の詩なんだけど、辻さんという人は、なにかそういう深い悲しみを胸の奥にいつもかかえていて、だからライトヴァースと言われる、ああいう軽みのある独得の詩を書けたんじゃないかなと思う。もちろん、この詩の語り手と詩人辻征夫とは区別しなければいけないんだけど、辻さん自身もそういう悲しさ(「なにが悲しいのかって/きかれても困るけれど」と書かれている)、そういうものを抱えていた人だという気がする。
「かぜのひきかた」という詩にも「さびしさと/かなしさがいっしゅんに/さようして/こころぼそい/ひとのにくたいは/すでにたかいねつをはっしている」という一節があるし、同じ『かぜのひきかた』という詩集のなかに「ぼくにも かなしいものが すこしあって/それを女のなかにいれてしばらく/じっとしていたい」(「ある日」)という詩があり、それはもう六歳の頃から「まつおかさんの家」の前を通ると「こころぼそさと かなしみが/いちどきに あふれてくる」のだから年季が入っている。
辻さんに『ゴーシュの肖像』(書肆山田、2002年)というエッセイ集があって、この本が出たときにbk1のサイト(いまはhontoネットストア)に書評を書いたことがあるので、前回と同様以下に掲げておこう。
「律義なせつなさ」をかかえた人たちの素敵な肖像
「くらしが/夢のように/なってから/夢はほとんど/みなくなった/ねむっているとき/わたしはたぶん/はっきりと/現実的に/どたりと/希望もなくねむっている」(辻征夫「睡眠」全篇)
カフカの夢日記を思わせるような詩だ。辻さんには「老婆殺し」や「学校の思い出」「ジャックナイフ」といったカフカっぽい散文詩があって、じっさい「ジャックナイフ」にはカフカの小説「兄弟殺し」が引用されていたりもする。
現代詩文庫の『辻征夫詩集』に清水哲男さんが「”辻クン”のジャックナイフ」という文章を寄せていて、辻さんのことを「私にはなんとなくせつなさが洋服を着て、せつなさがネクタイをしているような印象を、いつも受けてきた」と書いている。そういえば、ボヘミア王国労働者災害保険局法規課職員フランツ・カフカにも、清水さんのいう「律義なせつなさ」がうかがえるような気がしないでもない。
清水さんは「彼の前に出ると(略)誰だって自分のほうがヤクザな生きかたをしているように思ってしまうのではないか」とも書いている。「そんなせつなさを”辻クン”は生得のものとして曳きずっているような気がするのである」と。それを「親和力」と清水さんは呼んでいるのだけれど、どうやら辻さんもまたそうした「律義なせつなさ」を感じさせる人たちに惹かれるところがあるようだ。本書の表題ともなったセロ弾きのゴーシュにしても、いや宮沢賢治にしてからが、そんなせつなさを曳きずっている人じゃあるまいか。
本書は二年前に急逝した辻さんの遺稿集で、詩の話、詩人の話、日常のくさぐさを活写したエッセイからなるのだけれど、「詩はかんたんにいえば滑稽と悲哀ではないだろうか」と書いているように、本書のいたるところにネクタイをしたせつなさのような「滑稽と悲哀」への親和がうかがえる。小沢信男さんの句集にふれた文章を読んでいて、そういえば小沢さんも、いや、ぼくの大好きな小沢さんの小説「わが忘れなば」(傑作だ!)こそ、「滑稽と悲哀」そのものじゃないかと思ったりした。
――この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ
そうでしょう、辻さん。
ぼくはいささか「せつなさ」に、あるいは「滑稽と悲哀」に拘泥しすぎているのだろうか。だけど、滑稽とも悲哀とも無縁のような谷川雁の肖像を描くときでさえ、辻さんの筆にかかるとたちまち滑稽味と一抹の哀愁とを帯びてくるから不思議だ。思潮社の編集者だった辻さんが仕事の依頼で雁さんを訪問し、なぜか喧嘩になってしまう。号令一下、九州から荒くれ男を招集して思潮社を潰してしまうぞと脅す雁さんに対し、辻さんは「階段の上から売れない詩集の束を雨あられと」投げつけて応戦する自分を夢想する――。
柳澤愼一さんにふれた文章がある。編集者と一緒にビールを飲みに入った浅草のお店で、辻さんは柳澤さんのジャズ演奏と歌に出会う。柳澤さんはかつて一世を風靡したエンタテイナーで名バイプレイヤー、「ひょっこりひょうたん島」や「奥様は魔女」の声優でもあった。柳澤さんもまた「律義なせつなさ」を感じさせる人のひとりだ。編集者の勧めであらためて柳澤さんと会って話を聞くことになったのも、自分と同じ一族の匂いをかれにかぎつけたからかもしれない。
柳澤さんは二年前に『明治・大正スクラッチノイズ』という本を上梓された。軽妙洒脱な文章でつづった大衆芸能文化史。とてもオモシロイ本で、あまり人に知られていないのがもったいなくてならない。本書『ゴーシュの肖像』もまた置いている書店は少ない。こんな本こそbk1で取り寄せて多くの人に読んでもらいたい――柳澤さんの本の編集をお手伝いさせていただいたぼくとしては切にそう願わざるをえない。辻さんに柳澤さんの本をお見せできなかったのが、いまはかえすがえすも心残りである。 (bk1 2003年)
上に書いた『明治・大正スクラッチノイズ』はその後、装いを新たに(和田誠さんのカバー装画)文庫化された。もうほとんど在庫がないようだが、書店や古書店で見かけられたらどうかお読みいただきたい。
文庫版『辻征夫詩集』が3万部、300万部、3000万部売れることをわたしとしてせつに願っている。
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