O様
昨日は終日氷雨が降りしきっていましたが、今日は一転して朝から快晴。窓の向かいの樹林が暖かな陽射しをあびてきらきらと輝いています。風に吹かれて小梢がゆらゆらとダンスを踊り、葉鳴りがひそひそと何かをささやきかわしているかのようです。ナボコフが「暗号と象徴」で書いたように、それは葉っぱたちの発信する秘密の暗号のようにも思えます。ナボコフも日がなうっとりと樹木のダンスを眺めていてあのお話を思いついたのかもしれません。
氷雨のなか、村上春樹のいう「雪かき仕事」の打合せで久しぶりに神保町へ出かけてきました。うちの近所にも書店はあるにはあるのですが、コミック・雑誌・実用書がほとんどで用をなしません。神保町で東京堂書店をのぞいて久方ぶりに渇を癒しました。三階の文学書のコーナーへ行くと、ペーター・フーヘルの分厚い評伝が平台に積まれていました。おお、こんな本が出ている! 数年前にフーヘルの詩集がやはり300頁ほどの上製本で出たときも驚きましたが、それも東京堂の同じコーナーの同じ平台で見つけたのでした。
『ペーター・フーヘル詩集』は小寺昭次郎の訳*1で『詩集』『街道 街道』の二冊の詩集が収録されています。小寺昭次郎はエンツェンスベルガーの『現代の詩と政治』*2の訳者で、以前、そのなかの「自由の石」というエッセイに引用されているネリー・ザックスの「新しい家を建てるあなたたちに」という詩をメールに引用したことがありましたね。まるで3・11の後に書かれたような詩。もう一度、ここに掲げてみます。
あなたが家を新しく建てるなら――
あなたのキッチン、ベッド、机、椅子を――
消えていったあのひとたちを悼む涙を
石に
柱に、懸けてはならない、
あのひとたちはもうあなたとともに住むことはないのだから――
そうでないとあなたの眠りのなかに涙が落ちる、
あなたがぜひとらねばならぬ短い眠りのなかに。
ベッドにシーツを延べるとき、ため息をついてはならない、
そうでないとあなたの夢は
死者たちの汗とまじってしまう。
ああ、家も家具もひどく敏感なのだ、
風琴のように、
あなたの苦しみを育てる畑のように。
だからあなたに、塵埃にひとしいものを嗅ぎつける。
建てなさい、時計の針はゆっくり流れる砂のよう。
だがわずかな時の間も、泣きつづけてはならない、
光をさえぎる
塵埃とともに。
こうして書き写していても、哀しみと諦念を押し隠して自らを励ます福島の人たちの顔が浮んでくるようです。アドルノは、アウシュビッツ以後、詩を書くことは不可能であるといったけれども*3、この命題を否定できる数少ない一人がザックスである、とエンツェンスベルガーは書いています(「自由の石」)。
ザックスのこの詩は『死の住みかで』という詩集の一篇です。死が「その家の主」となってしまった強制収容所を主題としたこの詩集には、ヨブ記の一節がエピグラフに掲げられています。――わがこの皮、この身の朽ち果てんのち、我肉を離れて神を見ん、と。
そういえば、ネリー・ザックスの詩集*4もフーヘルの詩集と同様、上製単行本で出ていて、いずれもそれほど多くの読者を期待できない本がこうして商業出版物として刊行されるということに(そしてそれをきちんと並べておく書店があるということに)一筋の光明のようなものをおぼえたことでした。
ペーター・フーヘルの評伝は、土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』*5という400頁ほどの本。まだあちこち拾い読みしただけですが、フーヘルの詩の翻訳と原詩とを随所に引用しながら、かれの生涯と生きた時代を描こうとするもので、あまり詳しくない戦後ドイツの文学事情を理解するうえで大いに役立ちそうです。
フーヘルは1903年、ベルリン近郊に生れ、1930年、週刊文芸紙「文学世界」で詩人としてのデビューを果たします。フーヘルの投稿した詩を読んだ編集長兼オーナーのヴィリー・ハースが「天から巨匠が降ってきたかと思った」といったほどですから、鮮烈なデビューといっていいでしょう。
フーヘルは出征し、45年4月、壊走するドイツの部隊を逃れてソ連軍の捕虜となり、収容所で文化活動に従事します。ドイツの敗戦で、英米仏ソによって分割占領・共同統治されたベルリンへ戻りますが、フーヘルはソ連占領区のベルリン・ラジオ放送局ではたらくことになります。占領地区におけるソ連の文化政策(とくに西側に対する文化宣伝)にとってフーヘルは絶好の人材であったわけです。
ここで思いだすのは、以前、リヒターの『廃墟のドイツ1947』にふれて書いた「47年グループ」のことです*6。リヒターはアメリカ軍の捕虜となり、収容所で発行されていたドイツ人捕虜向けの新聞「デア・ルーフ」に寄稿したりしますが、ドイツへ帰国後、アメリカ占領下のミュンヘンで同名の雑誌「デア・ルーフ」をアンデルシュとともに発行し、やがてそれが47年グループの創設につながってゆく。つまり、フーヘルはソ連軍の捕虜となり、リヒターやアンデルシュはアメリカ軍の捕虜となったことが、その後のかれらの人生と文学に決定的な影響をおよぼすわけですね。
フーヘルは1948年、『詩集』という名の第一詩集を上梓します(32年に出版を準備していた『少年の池』という詩集は刊行されず、そこに収録されるはずだった73篇のうち、18篇が『詩集』に採録されました)。49年に文芸誌「意味と形式」が創刊され、フーヘルは編集長を務めます。ブレヒトを「雑誌の顔」として正面に押し出し、エルンスト・ブロッホ、ルカーチ、クラウスらを常連執筆陣に迎えて「ドイツとヨーロッパの文学と芸術の伝統をマルクス主義の立場から解釈し直す仕事によって雑誌に骨太な骨格を形成した」(土屋洋二)のです。
西ドイツの作家、とりわけ若い世代の作家たちを起用することはフーヘルの望むところでしたが、思うようにことは運びません。ここには(ここにも)「文学と政治」の問題が横たわっていました。すなわち党指導部=文化官僚は文学(芸術)を政治に従属すべきものと考えていたのです。「社会主義リアリズム」というやつですね。
47年グループとフーヘルとの接触は一度、54年の会合にリヒターからの招待状が届いたときだけです。その会合で参加者からフーヘルに東ドイツの体制について質問が出され、フーヘルは「硬直した東側の画一的見解に固執した」と西側メディアは報じたそうです。「国家から財政支援をうける芸術アカデミーの機関誌」(同前)の編集長が、他国で「秘密警察の暗躍する東ドイツの体制」を批判できるわけがありません。フーヘルの盟友エルンスト・ブロッホ(20歳ほど年長ですが)は、「党指導部によって反革命分子の烙印を捺され」、ライプツィヒ大学の教授を解任されて61年、西ドイツへ移住します。フーヘルもまたその翌年に「意味と形式」の編集長を解任されて、秘密警察の監視下に軟禁状態を余儀なくされました。フーヘルも71年に東ドイツを出国し、10年後に西ドイツのシュタウフェンで亡くなります。
フーヘルの評伝を見つけたということをお伝えするつもりが、思いがけなく長くなってしまいました。最後に、フーヘルがブロッホの70歳の誕生日に献げた詩を一篇、掲げておきます。これは「意味と形式」に掲載されたものですが、ブロッホの主著『希望の原理』もまた「意味と形式」に断続的に連載されたものでした。
土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』には、訳詩と原詩、そして詩の詳細な解読があり、それはこの献詩を理解するのに有益ではありますが、ここでは小寺昭次郎の訳で引用します。『ペーター・フーヘル詩集』は小寺の遺稿(の一部)で、かれにいますこしの時間が残されていたらフーヘルの全詩集を自らの手でまとめることができたかもしれません。1950年代から小寺昭次郎と文化運動をともにしてきた古志峻は、巻末の解説でこう書いています。「小寺昭次郎は、高原宏平らとともに、「ドイツ・グループ」で、フーヘルをはじめて読んでいらい、フーヘルへの関心は終生かわらなかった。そしてそれは、戦後、DDR(ドイツ民主共和国)において、内外の風圧に耐えぬき、「ひととひととの間に距離をなくすものではなく生かす友情」(ブレヒト)のために闘ったフーヘルの精神の根源への共鳴でもあったといえよう」と。
献詩――エルンスト・ブロッホのために
秋と、霧の中で次第に明るさを増す太陽、
そして夜空には火の形象(すがた)。
それは崩れ、流れる。きみはそれを保持せねばならぬ。
切り通しの道ではいっそう素早く野獣が入れ替わる。
遙かな年からの木霊のように
遠くの森を越えて一発の銃声が轟く。
再び目に見えぬ者らがさまよい、
川は木の葉や雲を追い立てる。
猟人(かりうど)はいまや獲物を引いて帰ってゆく、
松の枝のようにこわばった角を。
沈思する者は別の形跡を探る。
木から金色の煙が立ち昇る
その切り通しの道をかれは静かに通り過ぎる。
時は刻々と過ぎ、秋風によって研ぎすまされた
思想は鳥たちのように旅立ち、
そして多くの言葉がパンとなり塩となる。
宇宙の大きな気流の中で、
冬の星座がゆっくりと上空へ昇るとき、
かれは予感する、夜がなお黙していることを。
(小寺昭次郎訳)
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