孤島へ持って行く本――ナボコフ再訪(4)



 孤島へ持って行くとしたらどういう本を選ぶか、という設問がある。最近の例でいえば「coyote」4月号の「アメリカの文学史を引き受けるような十人の作家から一冊ずつ選ぶとしたら」という質問に、柴田元幸さんはこう答えている。
 フォークナーの『響きと怒り』、メルヴィルの『バートルビー』、ホーソーンの『トワイス・トールド・テイルズ』、トウェインの『ハックルベリー・フィン』、C・B・ブラウンの『エドガー・ハントリー』か『ウィーランド』、マラマッドの『アシスタント』、エリクソンの『黒い時計の旅』、ダイベックの『僕はマゼランと旅した』……あとの二冊が決まらず、インタビュアーが助け舟を出して、アメリカという限定を外して再度選びなおすと、
 ドストエフスキーの『悪霊』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』か『戦争と平和』、ゴーゴリの『外套』、カルヴィーノの『見えない都市』、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』、それにアメリカ文学から先述の『響きと怒り』、『ハックルベリー・フィン』、『トワイス・トールド・テイルズ』、『バートルビー』、そして最後の一冊は漱石の『吾輩は猫である』。
 「それが幸福な読書ですか?」という問いかけに「そうです。でも僕は離れ島にはやっぱり行きたくない(笑)」という落ちがつくわけだが、ところでわたしはといえば、思いがけず陸の孤島へ行くことになり、この設問に真剣に答えなければならない羽目になった。


 本当に離れ小島へ行くのなら、薬用になる植物や食用に適した茸などを解説した図鑑や、火のおこし方や天測航法などについて書かれたサバイバルのための実用的な本を選ぶのだろう(そういえばわたしの愛読書に『じょうずなワニのつかまえ方』という傑作な本があって、「ピラニアの機嫌のとり方」や「クマにダンスを教える方法」、「アフリカゾウとインドゾウの見分け方」「ウシをまる焼きにする方法」といった実用的なハウツーが満載されている。むろん「火おこし棒の使い方」もある)。図鑑は好きなのでカラフルな鳥類図鑑やボタニカルアートの本でもいいのだけれどあまり重い本は好もしくない。何にしようかとしばらくのあいだ逡巡を愉しんでいた。結局数冊に絞ったのだけれど、そのうちの一冊はやはりこれ――Lo. Lee. Ta.
 アルフレッド・アッペル・ジュニアの詳註『ロリータ』、VINTAGE BOOKS。それに、若島正訳の新潮文庫版、電子辞書、ジェレミー・アイアンズ朗読のLOLITA(RANDOM HOUSE AUDIO)を入れたWALKMAN。ちなみにWALKMANにはGlenn GouldのBach(G.G.のハミングはone of my favorites)と近頃お気に入りのSOTTE BOSSEのアルバムinnocent viewも入っている。
 

 さて、気に入った本はたいていそうなのだけれど、手近に置いて気まぐれに数頁拾い読みをするのが通例で、どういうわけかいつも同じ箇所を繰り返し読むことになり、読むたびになにかしら新しい「発見」をしてしまったりする。つまり一度読んだだけではいかに読めていないかの証明にもなるわけだが、『ロリータ』では最初のほう、第一部八章は、べつになんということもない箇所だけれど、これもone of my favoritesである。
 ハンバート・ハンバートはある朝突然路上で妻のヴァレリアから「わたしの人生には他の男性がいる」と告白される。これは彼女がスラブ語の決まり文句かなにかをフランス語で言い換えた言葉をH.H.が英語に翻訳したもので、この告白の(そしてこの章の)滑稽さを象徴するような馬鹿げた言い回しになっている。いわく、”There is another man in my life.”
 H.H.は近くにいたタクシーにヴァレリアを押し込み、愛人の名を白状させようと執拗に問い詰める。彼女は観念したのかちょっと肩をすくめて前の席の運転手の猪首を指さした。このあたりからこのチャプターの最後までは一場のバーレスクで、ナボコフがいかにも愉しげにこの茶番劇を綴っているさまが窺えて、何度読んでも微笑をさそわれる。
 運転手は車を停めて小さなカフェで自己紹介をする(H.H.いわく「彼の愚かしい名前は憶えていないけれども」)。その口髭を生やし髪をクルーカットにした白系ロシア人の元大佐は、ヴァレリアと手に手をとって入ってゆくlove and workの世界について最悪のアクセントのフランス語でH.H.に語るのだが、その間、当のヴァレリアはといえば二人のあいだに挟まれて唇にルージュをさしたり、「顎を三重にしてブラウスの胸元を指でいじくったり」している。
 ヴァレリアも最初はイミテーションの少女らしさを保っていたのだけれども(H.H.はそこに惹かれたわけだが)、いまではa large, puffy, short-legged, big-breasted and practically brainless baba.(「大柄で、肥満で、短足で、巨乳で、ほとんど脳なしの田舎女」)になってしまった。そんな彼女が顔を俯けてブラウスの胸元の飾りだかなんだかをいじっている様を見ると顎が「三重」になっていて当然なのだが、こうした箇所でtripling her chinという描写をさりげなく忍び込ませることのできる小説家はそう多くはいまい。
 こうした描写のディテールの積み重ねが登場人物を生き生きと現前させ小説を活気づかせる源であって、こうした例をもう一つだけ挙げるなら、第一部十章の、マレーネ・ディートリッヒを水で薄めたようなヘイズ夫人との出会いの場面。ヘイズ夫人の家を訪問したH.H.がデコラティヴな玄関ホールで所在なげに佇んでいると、階段の上から歌うように「ムッシュー・ハンバートさん?」という低い声が聞こえ、煙草の灰がほんのわずか落ちてくる。


 Presently, the lady herself−sandals, maroon slacks, yellow silk blouse, squarish face, in that order−came down the steps, her index finger still tapping upon her cigarette.
 (「まもなく当の女性が、サンダル、葡萄茶色(えびちゃいろ)のスラックス、黄色のシルクのブラウス、角張った顔という順で階段を下りてきて、人差し指がまだ煙草をかるく叩いていた。」若島正訳)


 こんな場面をなにかの映画で見たような気がするけれども――つまり映画ではきわめて普通に見られるショットだけれども、小説にこうした描写が登場するのは珍しい。たいていの場合、「黄色のシルクのブラウスに葡萄茶色(えびちゃいろ)のスラックス、サンダル履きの角張った顔の女性が、人差し指で煙草をかるく叩きながら階段を下りてきた」と書かれるのが常である。ナボコフは、足元から腰、胸、顔へと順々に単語をならべてゆくことによって文章による映像的効果を擬態しているのである。(ひと言つけ加えれば、日本語でサンダルといえば近所へ散歩に行くときの突っ掛けのようなものを想像してしまうけれど、豪邸に住むマレーネ・ディートリッヒには聊か不釣合である。おそらくそれなりにゴージャスな室内履きなのでしょうね。)


 さて、ふたたびカフェの場面をプレイバックすると、H.H.にむかってヴァレリアの日常の食事やら生理の周期やら衣裳一式やら、果てはいままで読んだ本とこれから読む本(「『ジャン・クリストフ』なんか気に入ると思うんですが」――『ジャン・クリストフ』はナボコフ自身の愛読書だ)まで相談をもちかけるこのタクシー運転手をH.H.はtaxi‐colonel(タクシー大佐)だとかMr.Taxovich(タクソヴィチ氏)だとかテキトーな名前で仮初めに呼んでいたのだが、「マクシモヴィチだ! 突然、この選択肢が記憶によみがえってきた」とふいにその名を思いだす。若島正はこの「選択肢」に「せんたくしー」というルビを振っていて、むろんタクシーの語呂合わせなのだが、原文ではMaximovich ! his name suddenly taxies back to me.となっている。his name suddenly comes back to me.というよりも、Maximovichという名の記憶がタクシーに乗って急スピードでよみがえってきたという感じがいかにもよく表れている表現ではないだろうか。
 こうした表現の細部を仔細にたどっているときりがなく永遠に読み飽きない。つまりそれが『ロリータ』という小説なのである。