追悼文を読むのが好きだ。とりわけ作家を追悼した文章に目がない。先頃編集をした随筆集(敬愛する編集者が丹精を籠めて書かれたもの)にも数篇の追悼文が収められてい、いずれも一読忘れがたい余韻を残す。それをいうなら追悼と銘打っていない文章でさえ、和田芳恵や山本健吉や三島由紀夫やについて書かれたものなどはおのずと追悼の意味合いを帯びて胸を打たれる。文芸編集者の文壇回顧録のたぐいは少なからず読んだが、それらとこの本とが一線を劃するのは対象への愛情の深さによるのだろう。知られざるエピソードを語るさいにも著者の筆致はこのうえなく抑制がきいて下世話に堕することはない。好い本になったと思う。近々書店に並ぶだろう。
頃日、一冊の追悼文集を拾い読みしていた。『水晶の死』というA5判500頁を超す大冊。「一九八〇年代追悼文集」の副題どおり、1981年から89年までに亡くなった五十余名の作家たちに捧げられた百五十篇以上の追悼文の束である。
たとえば、1987年の暮れも押詰まった12月29日に八十八歳で長逝した石川淳については、親交の深かった中村真一郎、丸谷才一、杉本秀太郎、大岡信の追悼文が収録されている(ちなみに石川淳の生年はナボコフと同じ1899年で、19世紀の人なのである。ナボコフは石川淳より十年早く亡くなった)。その杉本秀太郎の追悼文から一節を引くと――。
石川淳、丸谷才一と歌仙を巻くために京都より遙々やってきた杉本秀太郎が、夜半、駿河台下あたりの旗亭に赴くと、「待ち構えていたかのように扉のそばには、扉にむかって座っている人」がいて、酔眼で杉本を認めると「バカヤロウ。きさまは東京にきていて、なぜ、おれに会いにこねえのか。バカヤロウ」と呶鳴りつける。
《だれかれの見境いなく人をバカヤロウ呼ばわりするこの人には、高橋和巳が小説『悲の器』を公けにした前後、しばしば京都で会い、上京して新宿で飲みあかしたこともあったが、例のバカヤロウにはいつも閉口した。》
杉本が名を明かしていないこのバカヤロウの御仁はむろん坂本一亀で、石川淳が身まかった十五年後にこの伝説の名編集者もこの世を去ることになるのだが、冒頭に書いたわが敬愛する編集者は坂本一亀に薫陶をうけた直属の部下で、同書にはむろん坂本一亀への愛情の籠った追悼文も収録されている。
杉本がバカヤロウに閉口していると、当の御仁は石川淳にむかって、
《「先生。ぼくは先生に酒の飲み方を教わりました」
と言いつつ、低い尻かけ椅子からころがり落ちている。
「あたくしは、そういう酒の飲み方を教えたおぼえはない」
間髪をいれずに応じて、あとは涼しい顔。》
石川淳を坂本一亀を直接知らなくとも故人を彷彿させる一場の情景のみごとなスケッチである。
山本健吉の「耕治人鎮魂賦」は、この特異な私小説家との交友をつうじて一篇の作家論ともなっている。耕治人の師川端康成への愛憎の念いは作品をつうじてよく知られているが、「愛憎の激しさは、普通人の心の振幅の度合いを、遥かに超えていた」として山本健吉は神西清の死にさいして耕治人から届いた書翰の一節を紹介する。
《(略)驚いたのは、神西清氏が亡くなった時のことだ。私は耕さんから手紙を貰った。それによると、前に「群像」の創作合評で耕さんの小説が取り上げられた時、神西氏が否定的な意見を吐いたらしい。らちもない私小説を、神西氏は好まなかったろうから、氏として正直な批評を下したのだと思うが、そのことを耕さんは執念深く心に秘めていた。驚いたことに、その手紙には、「神西氏が死んだのは天罰が下ったのだ」と書いてあった。》
耕治人といい車谷長吉といい、私小説家のいわば「業の深さ」を伝えるエピソードである。本書の編者は序辞にこう書く。
《唐木順三は中村光夫に送られ、中村光夫は大岡昇平に送られる。大岡昇平は今日出海や野上彌生子も送っているのだが、同時に大江健三郎や丸谷才一や吉田秀和や水上勉によって送られる。小林秀雄は円地文子と篠田一士に送られる。円地文子は野上彌生子や尾崎一雄の追悼文を書くのだが、山本健吉や田中澄江に書かれる。その山本健吉にしても、上林曉や耕治人に書き、大岡信、三浦朱門、田中千禾夫に書かれる。篠田一士にしろ、西脇順三郎に書くが、黒井千次、菅野昭正、中村真一郎、辻邦生によって書かれる。》
「ここには目の眩むような円環がある」といい、「追悼文を書いた人物がやがて書かれるという運命からも逃れられない」と書く四十代なかばの編者・立松和平にはその時、それから二十年もしないうちに自分もまたその円環の中に加わることになろうとは思いもよらなかったろう。この序辞は次の一文で閉じられている。
「虎は死んで皮を残すが、人は死んで文を残すのである。」