夢の浅瀬を渡る


 しばらく入院していた。体に不調のあることは検査によって数ヶ月前からわかってはいたが、さまざまな事情があって五月中旬に入院することになった。施術それ自体はシンプルで、体内の患部を切除し、その周辺の配管をつくろったのち、創口を縫合する。それだけのことである。切除による身体機能の毀傷であるとか病変部を隈なく切除できたかどうかといった病いに附随する問題はさまざまあるけれども施術のプロセスは概ね上記の如くで、患者は術後創口が身体組織それ自体の力によって癒着するのを待つのみ。創口を舐めて幾日も踞り回復を待つ犬と同じである。いくら医学の技術や設備が発達を遂げたといっても原理は原始的で、それを超越したときに(たとえば自己治癒力を全く当てにしない治療法などの開発)おそらく人間はいままでと全く異なる新たな身体のイメージを手にすることになるだろう。
 術後しばらくは夜となく昼となく寝ては覚めを繰り返していたわけだが、浅い睡りのなかで、かつてないおもしろい体験をした。夢の浅瀬を渡る、とでもいえばいいだろうか。いま自分は夢を見ている、ということを夢のなかで意識しているのである。それだけのことなら珍しくもないが、現実に起ったことを夢に見ているのか、それともそれは夢のなかだけの出来事であるのかを、夢のなかの自分が吟味しているのである。
 具体的に書いたほうがわかりいいだろう。わたしの手元に一冊の詩集があり、それは古書店で購ったものであるらしい。だがその詩人の名に見覚えはない。かなり高価な本らしく、未知の詩人のそれほど高価な詩集を買うはずはないので、これは現実の世界で購った本が夢に出てきているのではなく夢のなかにのみ存在する本なのだ、と夢のなかのわたしは判断している。するとそれにあらがうようにその詩集のなかの詩の一篇が現れて、それはなるほど結構な出来栄えの詩で、これなら大枚を支払って購入するのも頷けると思い直す。するとやはりこの詩集は現実の世界に存在する本なのか。現実と夢とがさながらウロボロスのように互いの尻尾を呑み込んでいるような夢――。夢から醒めてしばらくたつと、それはすべて夢のなかの出来事であったとわかるのだが、その詩人の名も一篇の詩も醒めた当座は憶えていたはずなので書き留めておけばよかったと聊か残念な気がしないでもない。
 次の夜、やはり寝苦しい朦朧とした意識のなかでその続きのような夢を見た。このたびは四人ほどの詩人の合同詩集で、なかの一人は既知の詩人(ということになっている)で、詩集の体裁、手触り、同じように夢に現れる一篇の詩も確っきりとしている。今度はノートに書き留めておこうと思い、枕元のノートとペンを取ろうとするのだがどうしてもできない。できないのはこれが夢のなかの出来事であるためで、ここが夢とうつつとの接合部なのだなと夢のなかのわたしは思っている。だがその詩集の実在感は奇妙につよい。この本ははたして現実に存在するのか。夢のなかの整合性が綻ぶのは、入院しているわたしがなぜその詩集を手にしているのかというただ一点のみである。病院へ持参した本のなかにその詩集が含まれていなかったことは確かで、だとするならこの詩集はどこからやってきたのか。そこのみが曖昧で、それがこの夢の現実感(リアリティ)を毀傷する瑕疵である、と夢のなかのわたしは判断している。
 ちなみにナボコフは『ロリータ』でこうした夢の整合性の綻びを「ドリームエージェントの放心」と称している。One of those little omissions due to the absent-mindedness of the dream agent. まさにそんな感じ。若島正は「夢興行師のポカ」と訳している。
 こうした夢の遠近法の詐術とでもいうべき一種の幻想はボルヘスをはじめとするラプラタ河流域の作家たちの作品によく見かけるもので、わたしもかつてその拙いパスティーシュを何篇か拵えてみたことがある(id:qfwfq:20050716, id:qfwfq:20050806,id:qfwfq:20050814など)。小説の制作はテクストから新たなテクストをつくりだす一種の知的操作で、自分で作りながら幻想と現実との接合部にかんしては観念的にしか解かっていなかったが、この二夜続きの夢によってある種のリアリティをもってそれを「体験」できたのが勿怪の幸いであった。おおかた脳の神経にかかわる現象で、薬物をつかえば同様の感覚を味わうことができるだろう。幻覚を引き起こす薬物を使用する作家がいるのも宜なるかなと思ったことである。
 病院で読んだ本については、おいおい書いてみたいと思う。