おお我が友よ、タワリーシチよ!



 「ユリイカ」3月号で翻訳家の岸本佐知子さんが洋書のジャケ買いの話をされていて、そうそう、そうなんだよな、とまるで岸本さんが訳されたニコルソン・ベイカーの本を読んだときと同じような相槌を打ってしまった。洋書は買ってもほとんど読まないので最近はあまり買わなくなったけれども(和書も買ってもほとんど読まないのに毎日のように買っているのはどうしてなのだろう)、昔はVINTAGE CONTEMPORARIESのシリーズなんてよくジャケ買いしたものだ。洒落たカバー・イラストが気に入って、どういう作家かも知らないで何冊も買いあつめていた。
 岸本さんはLinh DinhのBlood and Soapという小説集について「私がカエル好きだったのと、この変った判型でピンときました」と語っていてカバーの写真が掲げてあるのだけれど、モノクロなのでアマゾンで検索してみるとほぼ正方形に近い判型の四分の三ぐらいが真っ赤な地で、そこにタイトルが書かれていて、和書なら帯にあたる部分の黒地に白抜きの著者の名とカエルの半身のイラストが載っている。なんだか面白そうな予感がするブックデザインで、じっさいそのなかの短篇 ”Prisoner with a Dictionary” や ” ! ”(これがタイトルだ!「まったく英語を知らないのに英語教師になって、自分でこしらえた想像上の英語を教えるヴェトナム人の話」だそうで、これはぜひタモリにやってほしい!)なんてカバーにふさわしい奇想小説ですこぶる面白そう。どこかの雑誌で柴田元幸さんが訳されたらしいので探してみよう*1
 和書でも装丁に惹かれて買うことは時折りある。たまたま前回ふれた野口冨士男の『流星抄』も書店で菊地信義の装丁に目をとめて買ったもので、ほぼ三十年前になるけれどもこれが初めて読んだ野口冨士男の小説だった。寺田博が起した作品社の初期の頃の本で、菊地信義もこの頃から装丁を始めたのではないかと思う。初めて見る菊地信義のブックデザインはとても斬新で、装丁に惹かれて何冊も買ったものだ。
 装丁だけじゃなく判型もちょっと変わったものに惹かれる。Blood and Soapのような正方形に近いものなら、新書館寺山修司の<あなたの詩集>シリーズ。最近では(といっても、もう五、六年前になるけれど)金井美恵子・久美子の『待つこと、忘れること?』がちょっとそれに近い判型だった。もうすこし縦長だったけど。後藤明生の『蜂アカデミーへの報告』は四六判より左右が少し短い細長い長方形サイズで、野中ゆりのコラージュのカバーともども好きだったし、本の真ん中に円い穴のあいた稲垣足穂の『人間人形時代』には度肝を抜かれた。本文の組版がさぞ大変だったろうと思う。
 判型でわりあい好きなのが新書版より左右が少し長いサイズで、平凡社東洋文庫シリーズ、昔出ていた晶文社の犀の本シリーズ、六興出版の一連の百鬼園の本もそうだった。古本屋でいまでも一冊百円〜二百円くらいでよく見かける新潮社の日本詩人全集や世界詩人全集も同じサイズで、昔は珍しくもない判型だったのだろう。六興出版から出ていた結城信一の随筆集『作家のいろいろ』も同じ判型で、この本の随筆を中心に最近増補編集されて出た『結城信一 評論・随筆集成』(未知谷)で結城信孝が「父が『作家のいろいろ』を気にいった大きな理由は、さわやかなデザインの小型本であることらしかった」と書いていて、わが意を得たりと思ったことである(『作家のいろいろ』のカバー絵は岡鹿之助)。
 『結城信一 評論・随筆集成』も岡鹿之助の絵を用いた貼函入・布装(田中淑恵装丁)の愛蔵本なのだが、初出一覧は記載されているけれども『作家のいろいろ』との異同が書かれていないのが瑕瑾。いずれ照合してここでご報告しよう。


 さて、話を冒頭に戻せば、岸本さんは、変な小説が好きなのが「私の弱点」と仰っている。かくいうわたしも判型だけでなく中身も変なのが好きで、昔からあまりひとの読まない変なのばかり好んで読んできた。思いつくままにあげれば、カリンティ・フェレンツの『エペペ』だのルイージ・マレルバの『皇帝のバラ』だのボブ・ショウの『去りにし日々、今ひとたびの幻』だのウィリアム・コツウィンクルの『ファタ・モルガーナ』だの、だれかがそんな本について話したり書いていたりしていると、おおタワリーシチ! と思ってしまう。むろん文学史に残るような傑作ではまったくないコツウィンクルのばかばかしい小説The Fan Man(邦訳『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』)のことをどこかで好きだと書いていた若島正を、だから我が同志とわたしはひそかに思っているのである。ブッツァーティカルヴィーノを好きなのも<変なもの好き>のせいにちがいない。
 ニコルソン・ベイカーなどは読者も少なくないと思われるけれども、わたしにとっても「最高にツボ」(岸本)のひとりで、いつものことながら、かつてbk1に書いた『室温』の書評を掲げておこう。ほんっとに面白いんだからねっ!



     こんな変わった小説を書く作家は二人といないだろう


 「ベイカーの新作が出たよ。こんどは『室温』というタイトルで、赤ん坊にミルクをやる20分のあいだの出来事なんだ」。ニコルソン・ベイカーの小説のファンなら(ぼくもその中のひとりだけれど)、こう聞くともう矢も盾もたまらなくなり、パブロフの犬のように涎を垂らしながらいそいそと本屋さんへ出かけることになる。でも、ご安心あれ。もう時間をやりくりして本屋さんへ出かけなくても、クリックするだけでソッコーお手元に届くというわけだ。ほら、それ、そこのバナーをクリックして!

 ところで、ベイカーの小説――すでに『中二階』『もしもし』『フェルマータ』と三冊がいずれも岸本佐知子さんの流麗な翻訳で白水社から出ているのだけれど――をまだ読んだことがないという人に、さて、どうすればその魅力を伝えることができるだろうか。
 『中二階』なら、ある男がエスカレーターに乗って中二階へ着くまでの何十秒かのあいだに頭に思い浮かべた事柄を(時には数頁に及ぶ注釈付きで)詳細に記した小説――なんだけれど、うーむ、こう説明してもなぜ「ジョン・バースの『フローティング・オペラ』以来最も大胆でスリリングな処女作」(「ワシントン・ポスト・ブック・ワールド」)とまで絶賛されたかはわからないだろうな。

 たとえば『室温』でいうなら、こんなところ――
 高級冷凍野菜の外箱の「一見エレガント風のコピーが、とつぜん不自然に簡潔な警句調の文体に取って代わられるさま」を主人公=語り手が指摘する。


 「<旬の盛りに摘んだやわらかなベビー・ピーを新鮮なタラゴン・バターでていねいに煮込み、急速に冷凍・密封しました>云々が、一転して野戦場の無線連絡のようにぶっきらぼうな<袋ごと鍋に入れ、湯せんする>になってしまうのだ。」


 思わず吹き出して、「そうそう、そうなんだよな」と相づちを打つことになる。この「そうなんだよな」感――岸本さん曰く「こういうことって、あるある!」(『フェルマータ』あとがき)――こそ、ベイカーの小説の魅力であり最大の特徴なんだけれども、「そんなのがブンガクか?」と問われれば、ぼくもまたベイカーに倣って枕草子からアララギ派まで動員して、この観察眼こそ文学の要諦であることを力説するにちがいない。
 ちなみに、ベイカーが日常の些事について考察するときに引き合いに出す固有名詞、『室温』でいえば――三ばか大将、イェイツ、アーネスト・ボーグナイン、タンタンと紅海のサメ、ファミリー・オブ・マン、空気史概論、ナポレオン・ソロ、ボズウェル、ヘルメス・トリスメギストス、中国の不思議な役人ナボコフ etc.は絶妙のバランスで、うっとりするほど趣味がいい。引用はかくのごとく優雅にありたい。

 『室温』(実際には二作目にあたる)では、とりわけコンマ(「,」ですね)の優美さを熱を込めて蜿蜒と語るくだりが圧巻だった。こんな変わった小説を書く作家は、ほんとに世界広しといえどもベイカーをおいて二人といないだろう。
                                            (2000.09.07)


Blood and Soap: Stories

Blood and Soap: Stories

室温

室温

*1:「囚人と辞書」は毎日新聞社のPR文芸誌「本の時間」(創刊号、2006年)に、「!」は”地上で読む機内誌”「ペーパー・スカイ」(19号、2006年)に、いずれも柴田元幸訳で掲載された。