ロンド・ア・カプリツィオ――『道化師の蝶』を読む



 言語は理念の楽器である。……数学の公式を使うのと同じように言語を使うのだということが、みんなにわかってもらえるならば!           ――ノヴァーリス*1


 小説は言葉によって書かれる。どんな言葉で書かれるかというと、世界に存在するあらゆる言葉(言語)で書かれ(得)る。なかには、消滅しかかった言語によって書かれた小説もあるにちがいない。その小説はいずれ誰にも読めなくなるだろう(その言語をつかう最後のひとりは誰と何を話すのだろう*2)。あるいは、存在しない言語で書かれた小説は存在しうるのか。だれも使い手のいない言語は存在すると言えるのか。Etc.
 数学者ジュゼッペ・ペアーノの提唱した人工言語である無活用ラテン語*3を用いて友幸友幸という作家*4が書いた小説「猫の下で読むに限る」(の翻訳)が、『道化師の蝶』のはじまりである。その小説に登場する「架空の新種の蝶」が小説から脱け出て、最後、ひとりの登場人物の頭の中に入り込み着想という卵を産み付ける。それがこの小説の首尾結構である。
 語り手「わたし」(だが、どの「わたし」か)が蝶に変身する場面は手品師のトリックを思わせて愉しい。


 老人は網をエイブラムス氏の手に押し込んで、右手の蝶を宙へと放ち、わたしへ向けて大きく手を振る。
 わたしはこうして解き放たれて、次に宿るべき人形(ひとがた)を求める旅へと戻る。


 蝶はひらひらと高空へ飛び立ち、飛行機の座席でペーパーバックの頁をめくっている男の頭へ滑り込むだろう。その男は友幸友幸の小説「猫の下で読むに限る」で『腕が三本ある人への打ち明け話』という本を読んでいた「わたし」だ(たぶん)。こうして円環は閉じられる。Finnegans Wakeのように。
 織り物の話が出てくる。


 布の目を数え、毛糸の目を数え、レース糸の目を数え、頭の中の編み図を、縫い図を、刺し図を布の上に書いていく。
 幾何学模様を位相幾何学模様を代数幾何学模様を書いていく。それが何かはわからないまま。模様自体に意味はなく、模様から意味が紡がれていく。糸で、針金で、鉛筆で、ボールペンで、万年筆で、銀筆で、アルファベットを縫い取っていく。


 円城塔芥川賞の受賞の言葉で「自分の書くのはリアリズム小説ではないかと思う」と語っているけれど、上記の一節など彼にとっての小説を書く作業そのものであり、小説の構成にもトポロジーが応用されているのだろう(たぶん)。「裏と表で同じ模様が浮かぶ刺繍は、世界中に結構種類があるんだよね。最近ちょっと、裏と表で模様の違う刺繍はできないのかって興味が湧いて。ただ変えるだけならできるんだけど、それだけじゃなく。何か微妙な拘束っていうか、枠っていうか、規則みたいなものがありそうで」という一節など、小説論として読んでおきたい。裏と表で模様の違う小説。テキストの語源は織り物だし、ね。
 子どもの頃、新聞の折込みのチラシから宝石の写真を切り抜いて絨毯の上に並べてみたけれど、紙面から切り離すと「ただの無様な紙切れへと成り果てる」なんて箇所は、実際の体験なのかもしれない。
 芥川賞の選評に「メタフィクション」という評語があったが、フィクションを主題にしたフィクションという意味ではメタフィクションに違いないが、むしろボルヘスを初めとするラテンアメリカの綺想小説の系譜、一種のカプリツィオといったほうがいい。計算しつくされた明晰な結構、曖昧なところはない。曖昧に見えるとすれば、それは意図的なmystificationである。
 小説は言葉でつくられた構築物である。Referenceがこの現実世界の似姿であればリアリズム小説と呼ばれ、世の大半の小説――芥川賞選者のひとりが言う「現代の事象を適格に捉え」た「巧緻技巧的」な「この国の」「娯楽小説」も――がここに含まれる。いっぽう、Referenceがこの現実世界の似姿でなければ、きわめて「巧緻技巧的」な小説であっても、くだんの芥川賞選者によって「言葉の綾とりみたいなできの悪いゲーム」と見なされる。かれが『リトアニアへの旅の追憶』を見れば、ピントも合ってないできの悪い映画と言うことだろう。「こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなはだ疑がわしい」と述べるとき、かれの頭にはジョイス以降の100年になんなんとする世界の文学は存在しないに等しい。
 この小説における描写の白眉を以下に掲げておこう。何語で書かれたかわからない文章を「わたし」が万年筆で書き写してゆく場面。


 わたしの手が自然と止まり、それでもペンは走り続けて、わたしは悟る。
 何かの種類のこれは呪いだ。
 わたしの言葉を固めようとする種類の呪いで、思考を縛り、血を凍らせて細い血管を詰まらせていく。わたしを破って一貫した偽りの人生が結晶化して、林のように突き伸びる。急激に回路のような枝を伸ばして、わたしを取り巻き立ち上がる。木々の間には枯葉のように乱舞する無数の透明な蝶。玻璃製の蝶が互いにぶつかり砕け散り、相反する要素を打ち消していく。次から次と湧いて出て、端から互いに否定を行う。
 強く風が一つ吹き寄せ、わたしの顔に硝子の粉を吹きつける。髪を振り、服を払ってあたりを見回す。無機質に広がり続ける喪われた言葉の国に、わたしは一人立っている。あらゆる比喩を抜きにして、呆れるほどにそのままに。


 ぶつかり砕け散り一瞬で消滅するガラスで出来た無数の透明な蝶たち。それが何のメタファーであるかはあえて言うまい。付言すれば、蝶に関連したナボコフへのallusionのように、サービス精神もふんだんにある小説である*5

道化師の蝶

道化師の蝶

*1:ジョン・ノイバウアー/原研二訳『アルス・コンビナトリア』ありな書房

*2:現在、世界に存在する6000の言語のうち半分は100年以内に消滅すると予想されている。

*3:ラティーノ・シネ・フレクシオーネ、屈折のないラテン語。語形変化がなく「ラテン語のあらゆる文法は消滅する」。だが、ついに普及することはなかった。――ウンベルト・エーコ/上村忠男・廣石正和訳『完全言語の探求』平凡社

*4:友幸友幸は『ロリータ』のハンバート・ハンバートのもじりだろう。斉藤斎藤という歌人もいるけれど。ついでにいえば、友幸友幸を追跡するA・A・エイブラムスは『スター・トレック』の監督J・J・エイブラムスでしょうね。

*5:ナボコフ自身、こうしたallusionを小説中に好んで用いたのは周知の通り。