眠る間も歌は忘れず――塚本邦雄論序説(2)


 昭和十七年夏、二十歳の誕生日を迎へたばかりの塚本邦雄は、広島は呉海軍工廠に徴用された。彦根高等商業(いまの滋賀大学経済学部)に学籍を持つ故にか会計部に配属されたが、もとより商ひに志したわけではない。学校はただの方便、青年邦雄の興味は文学、映画、美術、音楽、もつぱら藝術全般に限られ、書店、映画館の巡歴にくはへ、京阪に足を延ばしては歌曲やシャンソンのレコード蒐集に惑溺する学生生活であつた。異郷の町へ拉致されてもその習慣は変はるべくもなく、休日には茶房でワーグナーシュトラウスに耳を傾け、呉や広島市内の書店、古書店巡りに余念のない日々であつた。
 ある日、邦雄は海軍工廠の学徒仲間に短歌をやつてみないかと誘はれる。彼は邦雄に萩原朔太郎を教へてくれた男で、日本浪漫派に惑溺する文学青年だつた。呉には「木槿」と「石楠」といふ二つの歌誌がある、籤引でお互ひがいづれかに入会し情報を交換しようぢやないか。邦雄にはどちらも初めて聞く名前だつた。調べてみると「石楠」は益荒男振りの述志の歌がずらりと並ぶ作風でとてもぢやないが膚に合はない。邦雄は「木槿」に入会することにした。
 「木槿」は、太田水穂が大正四年に創刊した「潮音」から分かれた歌誌で、主宰する幸野羊三の詠風も明らかに潮音系といふべきものだつた。邦雄が「木槿」にはじめて投稿した歌「鬼百合のあからさまなる花のそり怒りは胸によみがへりきぬ」の下の句を、幸野羊三は「みぬちの怒りよみがへりくる」と添削して発表した。なるほどこれが「潮音」流か、と邦雄は思つた。邦雄は昭和十八年五月号より二十三年七月号まで六年にわたつて「木槿」に短歌を発表する。
 以下に抄出する。


 いつさんに昼の斜面を駆け下りてたんぽぽの蝶を飛ばしめにけり       
                               昭和十八年五月
 噛みしめし苦き思ひや沈む日の逆光にしてダリアは黒し            
                               昭和十八年七月


 小池光のいふやうに歌に詠まれるときダリアはつねに黒く、負のイメージを附与される。この歌もその例に違はない。後年の、すなはちわれわれのよく知る塚本邦雄なら、かうした観念連合を逆手に取るか、あるひは揶揄する歌をつくつただらう。このときの青年邦雄の念頭には、斎藤茂吉『赤光』の「ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり」があつたのかもしれない。『赤光』は『桐の花』『みだれ髪』とともに十五歳の頃の邦雄が心酔した歌集だつた。抄出をつづけよう。


 ひつそりと夏をみごもる草ありて夕べは水の光り流るる             
                               昭和十八年八月
 いつの日かつひの別れはありと知れ今宵は母と肩寄せて眠る         
                               昭和十八年十一月


 だが「つひの別れ」は思ひのほか早く来た。昭和十九年八月三十日、母寿賀が他界する。享年五十四。邦雄は五十首余の挽歌をしたため篋底に秘す。後年『薄明母音』と題して開版した歌集に、「木槿」(昭和二十年五月)に発表した以下の二首も収められてゐる(表記は歌集による)。


 秋たちぬわれが切なき常住をはつかに彩ふ犬蓼の朱      
 輾転の幾夜かこほるまなぶたにかがよひて皓き母はいましき      


 「木槿」に入会し、「眠る間も歌は忘れずこの道を行きそめしより夜も昼もなし」(昭和十八年五月)と短歌に志した邦雄に、「多磨」(北原白秋)に所属してゐた長兄春雄は、「お前の歌は到底見込みがないからやめておいた方がいい」といひつつ、読み了へた歌集を次々と送つてよこした。邦雄はそれらのなかから、前川佐美雄『大和』、坪野哲久『桜』、斎藤史『朱天』、そして『新風十人』などを耽読し、同時に、呉の古書店をたづねて短歌誌を渉猟し、「潮音」「心の花」「水甕」「青樫」といつた結社誌のバックナンバー数年分を抱へて帰つた。かうした歌集や短歌誌のなかの幾人かの歌に、邦雄は大きな感銘を受けた。
 邦雄に結社への入会を誘つた学徒仲間はやがて応召し、「満洲」で戦死する。交友の記念にくれた朔太郎の『絶望の逃走』を邦雄の手に遺して。
 われわれの知る塚本邦雄に出会ふには、まだしばらく青年邦雄の足跡を辿らねばならない。