老を言はむや――岩本素白の随筆(その2)


 前回いただいたコメントに、「若い頃は齢をとればもっと楽に生きられると思っていたが間違いだった」とお返事を書いて、これは誰かの口真似のようだなあと頭の片隅で気にかかっていたが、おおそうだった、空穂だった。


 老いぬれば心のどかにあり得むと思ひたりけり誤りなりき
                            窪田空穂


 空穂がこの歌を詠んだのはもう八十代も半ばを過ぎた頃で、それに比べると私如きは未だ青二才で何を知ったような口を利いているのかと叱られそうだが、にもかかわらず、空穂の晩年の歌は私の身につまされてならない。


 老いぬればかくなるものかすべき事あまたある如く心せはしき
 大切の事を忘れてゐるごとき思ひのありて身より離れず      
                            空穂


 年の瀬も押しつまってやらねばならぬことを山ほど抱え、心急きつつこうして漫文を綴っている私である。かねてより愛読しているブログ日用帳のfoujitaさんが『東海道品川宿』について書いてくださった(id:foujita:20071226)。身に余る御言葉にただただ感激する。そうなるともう少し素白について書きたい気持が募ってき、このたびもまた寄り道をつづける私である。


 さて、早稲田に入学して以来六十年間素白と親交を保った空穂は、七十八で逝去した素白を看取り、その後十年以上生きて上掲のような歌を遺した。素白の死を悼んだ歌は以前ここで一首のみ紹介したことがあるけれども、詞書と連作七首の一連を書きとめておく。


「 岩本素白君と死別す
 素白はわが同学の友なり。知性感性ともに秀抜なる国文学者にして、満七十歳の定年まで早大教授をつとめ、同僚、学徒より畏敬さる。文学論集あり。他面、文芸人として、随筆集二部あり。共に独自性ゆたかなる名文集なり。我は六十年間渝らざる親交をつづく。十月二日、脳出血のために七十八歳をもつて逝く。板橋なる日大病院の死亡室にて、すでに納棺せる素白と永訣す。語を絶する感あり。


 わが魂引き入れらるる思ひもて柩のうちの素白に見入る
 六十年交はりつづけ如何にぞと思へることのなかりしこの人
 三年ごし心の服喪つづくると老いたる友の笑みて漏らしぬ (素白、妻に先立たる)
 顔見にと来たれり今日はと手もて制し立ち帰りする友なりしかな
 昏睡の顔見らるるを恥ぢとして覚めて腹立つ素白とおもひき
 昏睡の十二日経て目をひらき子がいふ言にうなづきしとぞ
 哀しみのよどむのみなる老となり為すこともなく一月を経ぬ
            (「木草と共に」、『窪田空穂歌集』岩波文庫所収)」


 素白を直接知らぬ者にもかれの人柄と挙措とがありありと目に浮ぶかのようである。そして心の友を喪った老いたる空穂の哀しみもまた。
 素白が生前に上木した著書は、随筆集『山居俗情』『素白集』、文学論集『日本文学の写実精神』の三冊のみであるけれども、並外れた潔癖さで著書の公刊を固辞していた素白の随筆集を出すなど、四十年来の親友である空穂にして金輪際不可能と諦めていた。それを可能ならしめたのは砂子屋書房山崎剛平で、空穂は『山居俗情』の跋文で、畏るべきは山崎剛平君である、と書いている。
 山崎剛平の著書『老作家の印象』に素白について八十頁余の記述があり、その経緯についても語られているので紹介しよう(名を譲り受けた現・砂子屋書房より刊行。なお、先代の砂子屋書房、正しくは「まなごや」と訓む)。

 山崎剛平は出版の承諾を得るために素白の家を訪ねる。前日、空穂に素白の家への道順を聞きはしたが、こう行ってああ行ってこちらを曲がってこのへんだよ、と要領を得ない。ままよと出かけたが案の定なかなか行き着かない。すでに夜も更けて尋ねようにも人通りもない。おまけに小雨だった雨脚も強くなり着流しの裾はずぶ濡れで、諦めて帰ろうと思い、念のためにと見た表札に岩本堅一とあった。家の所在もわかったことだし今日はこれにて引き返そうと思ったが、折角と思い格子戸を開けると――「やあやあやあの賑やかな歓迎のうちに着物を脱がされて上等の結城を着せられ、座敷の卓前に而も上座にデンと坐らされてしまった」。山崎の腹を据えての説得が功を奏し万事OKの成り行きに空穂の驚くまいことか。のちのちまで素白陥落武勇伝の語り草となった。
 ようやく本ができても素白は印税を受け取らず、おまけに百冊購入するという。いかにも素白らしい。初版部数は二百五十部と伝えられているから、この『山居俗情』、めったに古書店でもお目にかかれない。私も目にしたことがない。運よく目にしたところで高嶺の花だろうが、幸いに『山居俗情』と『素白集』はのちに出た『素白随筆』に完本で収録されてい、こちらはまだ古書店で見かけなくもない。それほど高価でもないので江湖の読者に一本御架蔵をお奨めするけれども、こうした本を文庫のような形で(あるいは形はどうあれ)後世に伝えることが出版に携わるものの使命でありそれが文化というものである。私などはそう思うのである。


 「東海道品川宿」の第十三回にこういう一節がある。品川の西の丘陵御殿山は、江戸時代には向島と並んで花の名所であった。素白の幼少時、明治の中頃までは千本桜といい、美しい景色をとどめていた。


 「この山の桜が切られ土地が売られるという噂が高くなった時、品川の町の人々が如何にそれを嘆き悲しみ、果ては大官であるとかいう山の所有者を怨み憎んだ怨嗟の声が湧き立ったかは、幼かった私さえ今尚強く記憶に残っているところである。文化文化と口にのみやかましく言う今でさえ、少し手を入れれば都市に美を添えることの出来る堀や川を埋めてしまうのであるから、無力なまた今よりは教養の乏しかった当時の市民が輿論などを盛り上げて、これを喰い止めることの出来なかったのは是非もないが、怨嗟の声など言うより、切られる桜、売られる山を惜しむ心の深かったことは、知識から来ているのでも理窟から来ているのでもなく純真な感情から来ているのであった。」


 素白がこの文章を書いたのは昭和三十五(一九六〇)年、日米安全保障条約が改定され、国威発揚の一大イベントを四年後に控え、小林信彦のいう東京の「町殺し」が進行しつつあった頃のことである。文化文化と掛け声ばかりなのは五十年後の今もいっこうに変わらない。素白は続けてこう記す。


 「彼ら町の人々は今のいわゆる教養こそなかったが、芝居を観、踊りを習い三味線を聞いていた。よしやその芝居の筋はらちくちもないものであっても、その音楽は甚だ単調なものであっても、それを知ったのではなく楽しんだのである。」


 もはや死語となってしまった「埒口もない」という言葉が自然に使われてい、目に心地よくつい口に出して読んでしまう。知ったのではなく楽しんだ――そこに江戸の名残である庶民の文化の厚みを素白は見ているのである。「学問知識が専ら理窟のものとなった今」と素白は書く。「論じる人はあっても味わう者がまことに少なくなった」と。文学もまたしかり。
 岩本素白沼波瓊音とを並べて森銑三はこう書いている。


 「沼波さんは古典を味読する人であつた。作品を通して古い時代の著者と、まのあたり相対することの出来る人であつた。岩本さんの古典の読み方もまたそれである。古典といふものを、いはゆる研究といふ作業の対象物として、ただそれをつつき散らしてゐる、鑑賞的能力を欠如した国文学者――さうした人が多過ぎはせぬか。」(『古い雑誌から』)


 森銑三がこう慨嘆したのは昭和三十(一九五五)年、素白や森銑三の歎きを老いの繰り言と嘲うことがだれにできよう。いま現在もなお。素白や森銑三の随筆はだまって味わえばよろしいのであるけれども、あえていうならばいまそれらを読むことの意義はこういう真っ当な指摘にふれるところにもある、と私などは思うのである。
 窪田空穂の、これは知命の時分の歌。頃日、愈々身に沁みて私に感じられるかのようである。


 もの読めば身にしむ言葉いちぢるく増えも来るなり老を言はむや



東海道品川宿―岩本素白随筆集 (ウェッジ文庫)

東海道品川宿―岩本素白随筆集 (ウェッジ文庫)