新春文体練習の一席



 寄り道をしはじめると果てしなく寄り道の快楽に耽るというのがトリストラム的性格のわるいところで、今回もつづけて寄り道の漫文を綴ることにしたい。お正月のこととてお屠蘇気分の座興と御容赦ねがいたい。


 さて、レーモン・クノーに『文体練習』という本があって、ひとつの場景を九十九通りの異なった文体で語るといういかにもクノーらしい愉しい本で長年(むろん翻訳で)愛読しているけれども、それをコミックでやってみせたのがMatt Madden,”99 Way to Tell a Story : Exercises in Style”。本家に負けず劣らずの才能を発揮した快著で、感嘆したり思わず噴き出してしまったりと見飽きない。国書刊行会から翻訳も出ていて(マット・マドン『コミック文体練習』)、訳者の大久保譲があとがきで書いているように<ひたすら「形式」に徹することから生まれる快楽を与えてくれる>本である。マドンさんのサイトでその一部を見ることができる(http://www.exercisesinstyle.com/)。
 文体模写なら、川端康成の『雪国』をいろんな小説家の文体で書き分けた才人和田誠の『倫敦巴里』が有名で、こういう本を読むとすぐに真似をしたくなるのが私のわるい癖で、及ばずながら文体模写を試みてみたい。パロディといえば、誰もが原典を知っていればこそその面白みが増すわけで、そうなるとまず第一に指を屈するのがこれ、平家物語の冒頭だろう。


 「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる者もひさしからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ、ひとへに風のまへのちりに同じ。」


 なかなかの難物ではあるけれども相手にとって不足はない。うまくゆきましたらお慰み。


丸谷才一版「平家物語文章読本
 「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり」といふのは平家物語冒頭の有名な書き出しで、高校の古文の教科書などで誰もが習ふから、誰でもが諳んじることのできるほとんど唯一の古典といへるのぢやないかしら。いや、源氏物語の「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」なんていふのも、そこだけは覚えてゐる人も少なくないかもしれない。平家物語にしろ源氏物語にしろ、文章にリズムがあるから覚えやすいんですね。文章は虚構であり、日常ではなく儀式であるから、めかしこんで威儀を正す。それがいい文章を書く秘訣で、ちよつと気取つて書くといふこと、あるいは、気取らないふりをして気取るといふこと、要するに装ふといふ心意気が大事なんですね。おや、なんの話をしてゐたんだつけ。さうさう、平家物語だつた。


花田清輝版「平家物語」小説平家篇
 「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり」は平家物語のなかで最も人口に膾炙した冒頭の一節であるが、あらためてことわるまでもなく、祇園とは京都の花街ではなくインドの祇樹給孤独園の略であって、ここにある無常堂の鐘が病僧の臨終に際して自然に鳴り出し、諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽と唱えたという。鐘の音が無常偈に聞こえるとは、わたしにはいささか誇張しすぎのような気がしないでもない。しかし、ひるがえって考えてみるならば、それはかならずしも単なる誇張ではなく、当時の民衆の無常感を無常堂の鐘にかこつけて琵琶法師が代弁したのだといえなくもない。盛者必衰は涅槃経の一節でむろん「じょうしゃ」と呉音で訓むのが仏教語の通例であるが、ここは「せいじゃひっすい」と漢音で読むのが習いとなっている。しかし、まあ、そんなことはどうでもいい。このプロローグに平家物語の思想が端的に表現されているのは確かであって、「私はお前に、一握りの埃を見せて上げよう」と歌ったエリオットのように、語り手はここで、猛き者も一握の塵のごとくついにはほろびぬという真理を――しかり、万古不易の真理を琵琶の音にのせて民衆に語り聞かせようとしているのである。


埴谷雄高版「平家物語」死霊篇
 「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり」。首猛夫は琵琶法師の奏でる寂寥たる響きに耳を傾けた。それはこの世のものならぬような、或いは、それと把捉しがたい魂そのもののような、ひっそりと静まりきった気配を漂わせていた。琵琶は啜り泣き、噎びあげる、物悲しい音をたてた。「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」。ぷふい、政治は腐敗する、絶対権力は絶対腐敗する。そう言った瞬間、首猛夫は厚い乳白色の霧のなかに一匹の巨大な蝙蝠のようにその身を投じた。あっは、猛き者もついにはほろびぬ、風の前の塵のようにね。おお、お前は、一抹の塵が空間を放浪して自ら発光する巨大な星になり、一片の蠢く単細胞が大地を踏み轟かす巨象になるほどの形成の時間の幅をただ一瞬の裡だけに凝縮してしまえると思うかな。ぷふい!


金井美恵子版「平家物語」目白雑録篇
 祇園精舎の鐘の声というのは、ある意味で諸行無常のひびきがするともいえるわけで、たとえば沙羅双樹の花の色が釈迦の入寂のさいに白く変わったように、それは<盛者必衰、実者必虚>の道理を現していて、権力者というものがそう長続きするわけがないということは平家物語の昔から変わりはしない。それはまるで春の夜の夢のようであるというか、風の前の塵のようであるというか、まあ、考えてみれば小説家というものも春の夜の夢のようであるといえばいえるわけで、それなのになぜ長いこと小説を書きつづけて来たのかといえば、それが愉しいからにちがいない。


村上春樹版「平家物語ねじまき鳥クロニクル
 台所でスパゲティーをゆでているときに、祇園精舎の鐘の音が聞えてきた。その音はどこか虚しい響きで、スパゲティーをゆでるにはうってつけの音だった。釈迦が涅槃に入るときに白く枯れたという沙羅双樹の花のように、スパゲティーは煮えたぎる湯の中でしだいに硬度を失っていった。僕は箸でスパゲティーを一本つまんでみた。それは性交を終えたあとのペニスのように柔らかかった。猛きものもついにはほろびぬ、か。やれやれ。


◎関西弁「平家物語」おまけ篇
 祇園精舎の鐘の音ちゅうたらな、そらもう諸行無常そのまんまやで。沙羅双樹て、おまはん、知ってはりまっか? お釈迦はんがやな、涅槃にはいりはる時に四方の隅に立っとった木ぃで、いっつもは黄色いのんがそのときは枯れて白なってたっちゅうこっちゃ。えらいもんやなあ。これはやな、お釈迦はんみたいなえらい人でも死ぬときは死ぬっちゅうこっちゃ。ええか、にいちゃん、よう覚えときや。


おそまつさま。



文体練習

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コミック 文体練習

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