文体練習書評篇



 いまはどこかに埋もれていてすぐには取り出せないのだけれども、丸谷才一の編著になる『ロンドンで本を読む』という本(最近文庫にもなった)の書評を書いたことがある。 その本の序文で丸谷は、かれが範とするイギリスの書評の特長を三つ挙げているのだが、それがかれの考えるよい書評の条件とほぼ重なるのだろう。その後に出た書評集『いろんな色のインクで』(マガジンハウス)の巻頭に置かれたインタビュー「藝のない書評は書評ぢやない」でも同様にイギリスの書評を称賛していて、一に本を選ぶ役に立つ、二に内容の要約と評価、三に藝・趣向・語り口、この三つが揃った時にいい書評になると述べている。この本そのものがその三つの条件を兼ね備えた書評の見本集のようなもので、とりわけ丸谷の藝・趣向・語り口を堪能することができるものとなっている。
 本間様には及びもないが、私もまた書評を書くときは多少は趣向らしきものを意識しないではない。以下に御覧に供するのは、かつてbk1のサイトに書いた書評で、『ロンドンで本を読む』を丸谷才一の文体で、中野美代子『肉麻図譜 中国春画論序説』を花田清輝の文体で書いたもの、そして高橋源一郎の『日本文学盛衰史』をその小説の登場人物である馬場孤蝶斎藤緑雨徳田秋声が創作合評で論じたという聊か手の込んだ形式で書いたものである。
 もう七、八年前のことになるが、bk1の書評は何をどのように書いてもいいという理想的な条件の依頼だった。枚数も四百字三〜四枚程度ということだったが、長くなれば分載された。この三本はともに七〜八枚のロングバージョンである。まあ、書くほうがひとりで愉しんでいるだけで読まされるほうはいい迷惑だったかもしれないが、こんなものを喜んでくれる読者も一人や二人はいるだろうと思って書いた記憶がある。好き勝手に書かせてくれた担当者には感謝している。


     1


  イギリスの書評文化の粋を展覧する
    ――丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』



 もう十年も前のことになるけれど、『Literary Switch』といふ面白い文藝雑誌があつた。大江健三郎小林信彦の短編小説(いづれも単行本には収録されてゐないはづ)、ポール・オースターウィリアム・トレヴァーの小説の翻訳、ジュリアン・バーンズ高橋源一郎の対談などが掲載されてゐる、ちよつと洒落たクォリティ・マガジンだつた。『New Yorker』の線を狙つたのだらうけれど、如何せんスノビッシュな文学趣味を好む読者が少なかつた所為か、惜しいことに短命に終はつてしまつた。
 『Literary Switch』は『SWITCH』の別冊のやうな季刊誌だつたが、当時は本誌『SWITCH』がもつとも文学に接近してゐた頃で(今の『SWITCH』とは似て非なるもの)、なかでも毎号愉しみにしてゐたのが「ロンドンで本を読む」といふ連載だつた。本書は『SWITCH』の連載(『Literary Switch』からも数篇)、および発表の舞台を雑誌『鳩よ!』に移してからの連載、それぞれからほぼ半数を選んで収録したものである。

 タイトルからもわかるやうに、本書はイギリスの新聞・雑誌に掲載された書評を蒐めたものだけれど、イギリスの書評の特長については、丸谷才一の序文「イギリス書評の藝と風格について」が簡にして明、過不足なく解説してゐるので要約して紹介しよう。
 一は、まづ本の内容の紹介。「どういふことがどんな具合に書いてあるかを上手に伝達し、それを読めば問題の新著を読まなくてもいちおう何とか社会に伍してゆけるのでなくちやならない」。二は「評価といふ機能である。つまり、この本は読むに価するかどうか」。三は「文章の魅力」。そして、さらに次元の高い機能として「批評性」。読者は「その批評性の有無によつてこの書評者が信用できるかどうかを判断する」のださうだ。おつかないですね。あだや疎かに書評できないといふことだ。自戒しなくつちや。

 さて、本書の書評に取り上げられた本はすべて邦訳のある本、および日本の著者の英訳本ばかりだから、読者は自分の感想と比べながら読むことができる。主だつたところを挙げれば、クンデラ『冗談』『存在の耐えられない軽さ』、ウォー『大転落』、プルースト失われた時を求めて』、マンゾーニ『いいなづけ』、デュラス『愛人』、エーコ薔薇の名前』、カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ボルヘスボルヘス全小説』、ナボコフ『ロリータ』『ドン・キホーテ講義』等々。日本の著者は、紫式部に始まり遠藤周作北杜夫丸谷才一(手前味噌ですが)、村上春樹
 書評の書き手のはうも、アントニー時計じかけのオレンジ・バージェス、サルマン・悪魔の詩ラシュディ、デイヴィッド・素敵な仕事・ロッジ、イーヴリン・ブライヅヘッドふたたび・ウォー、V・S・死者が導く・プリチェット、ジョージ・言語と沈黙・スタイナーetc.と豪華メンバー。


 ここでは、編著者に敬意を表して丸谷才一の長篇『たった一人の反乱』を、ほかならぬアントニー・バージェスが取り上げた書評(『オブザーヴァー』紙掲載)を紹介してみよう。なほ、それぞれの書評に付されてゐる丸谷才一の短いコメントが親切かつ読みどころ。

 バージェスはまづ、デニス・キーンの翻訳を称讃する。私には日本語はわからないが、英文学の先生をしてゐた作者自身が褒めてゐるくらゐだから間違ひなからう、と軽くジャブを放つ。落語の枕の間合ひですね。さうして、この小説が従来の日本の現代小説とは違つて、西洋流の小説のテクニックをいかに駆使してゐるかを指摘したのち、おもむろに内容の紹介に取りかかる。とはいつてもそこは手練れのバージェス、たんなる粗筋の紹介ではなく、主要な登場人物の紹介がすなはちストーリーの紹介になるといつた、このあたりのあざやかな手際には舌を巻く。
 題名の由来を物語にからめて指摘し、主人公が一人でチャーハンを食べるといふ印象的なシーンを引用したのち、「人生全般についていえる肝心なことは、ひとそれぞれに居場所があるということだ」と本書の主題を簡潔に要約してみせる。また小説家の書評らしく、作者の技法に言及して「さすがにバージェスは全部わかつてるんだなあ」と丸谷を恐れ入らせもする。

 ――と、解説してゐたら、おやおや何のことはない、この書評への丸谷自身のコメントと同じになつてしまつた。ぢやあ、丸谷のふれてゐないことを少しだけ。
 この書評のタイトル“Fried rice for one”は小津安二郎の映画『お茶漬けの味』“Green tea over rice”に懸けたものだらうと丸谷は推測してゐるけれど、それに加へて当然“Tea for two”にも懸けてゐるんでせうね。幾野宏は「一人分のチャーハン」と訳してゐるが、ここは「たった一人の炒飯」としてほしかつたところ。余談だけれど。

 さて、東京で「ロンドンで本を読む」を読む。丸谷のいふイギリス書評のポイントをクリアできたかしら。遠く及ばないつて? そりやあ、何といつても枚数が少ないもの。ねえ?      (2001.09.18)



     2


  官能の庭、もしくは壺中天のシンボリズム
    ――中野美代子『肉麻図譜 中国春画論序説』



 老境にさしかかったせいか最近はとんとご無沙汰になったけれども、かつてアダルトビデオを見ていてひとつ気になったことがある。事の最中、忘我の状態になりながらも顔にふりかかる髪をしきりに掻き上げる女性の仕草に、である。むろんカメラに顔がよく写るようにとの監督の指示にしたがってのことだろうが、後背位であたかも山鹿の陣太鼓のごとく臀部をはげしく連打されながらも必死で髪を掻き上げる彼女の職業意識にいたく感心させられたものである。

 そんな埒もないことを思いだしたのは、本書の口絵に極彩色で掲げられた中国の春画の一葉を目にしたせいにほかならない。清代北京の妓館での房事を写した、いかにも春風駘蕩といった趣の絵画で、ここでは娼妓でなく男のほうが行為の邪魔にならぬよう長い辮髪を鉢巻のように頭に巻きつけている。交合の局部もしっかりと描かれてい、女は慈しむような流し目で男を見つめているのだが、男のほうは女に顔を背けて横顔を見せ、ちょうど庭の辺りに目をやっているような風情である。正対すれば画面には男の後頭部しか見えなくなるわけで、これは絵画の構成上の要請にちがいあるまいが、この絵のキャプションには「この男の心は、女よりも庭にあるらしい」と書かれている。だが、はたしてそうか。
 アングルの問題はさておくとしても、男は気が行かぬようあらぬ方を眺めている、という見方もできるのではあるまいか。女の慈愛にみちた眼差しは、男のそんな涙ぐましい努力に向けられたものという気がしないでもない。しかし、まあ、そんなことはどうでもいい。この、ふんだんに挿絵を収載した、中国の春画を論じた本で私がなにより面白いと思ったのは、ほかでもない、春画にとって庭園とはなにかといったテーマであって、私もまたその男同様、心は女よりも庭にあるらしいのである。 


 中国における園林すなわち庭園が、とりわけ中世において「園林的世界」ともいうべき大きな意義をもっていたことは大室幹雄の大著『園林都市』に詳しいが、さて、ところで、中国の春画はきわめて開放的で、屋内よりも屋外、すなわち庭園での情景が多いと指摘したうえで、中野美代子は、それではなぜ「屋外庭園内での戯れのほうが閨房内でのそれをはるかに凌いでいるのか」と問いかけている。「それは春画だからである」というのが著者の身も蓋もない答えであるけれども、それはいかなる意味であろうか。
 春画もまた絵画の一つであり、中国の絵画は規範的風景を描くものであって、それはとりもなおさず庭園である、と著者はいう。「春画のなかの庭園は、かくして性戯する男女にとって経験的な快楽の場所ではなく象徴的な空間にすぎない。それを経験的な場所であるかのごとくに描くところに、中国の春画の二重の虚構性があるといえるのだ」と。それかあらぬか、屋内での房事を描いた絵にも山水画の屏風が姿をのぞかせ、そこには女性器のシンボルである牡丹と雌雄合体のシンボルである太湖石とがひときわ鮮やかに描かれているのである。

 中国の春画とは、したがって男女の営みよりもむしろ庭園を描くことにその眼目がある、というのが著者の主張にほかならない。そして庭園とは、いや作庭とは、「芥子(かいし)に須弥(しゅみ)を納(い)れる」――芥子粒のなかに須弥山すなわち無辺際の世界を閉じ込める「壺中天」の思想の表現でもあった、と。そして太湖石のかたわらで房事にふける男女は、もぐりこんだ壺(=洞窟(グロッタ)=子宮)の中で壮麗な仙宮世界に出くわした費長房(ひちょうぼう)の行為をなぞっているのであって、いいかえれば「壺中天の思想のアナロジーを演じている」といえなくもないのである、と。
 チャイニーズ・ボックスにも似た「この二重三重の虚構の入れ子構造が、春画を成りたたせている」と著者はいう。中国の春画が日本の浮世絵のそれとくらべて、はなはだ迫真力を欠いているのはおそらくそのせいに違いあるまいが、庭園に――、眼前の敵娼(あいかた)よりも庭園に心を奪われているくだんの男のように、男女の営みを描きながら房事よりも庭園に執心している春画とは、いささか本末転倒という気が私にはしないでもない。
 私もまた、「春画にとって庭園とはなにか」といったやくたいもないモンダイになどかかずらわず、春画そのものに、いや、いっそ寺山修司のいうように書を捨てて行為そのものに励むべきだったのかもしれない。                                      (2002.03.29)
 

     3


  【創作合評】『日本文学盛衰史』を論ず
           ――高橋源一郎日本文学盛衰史

 ★出席者:馬場孤蝶斎藤緑雨徳田秋声


孤蝶☆今日取り上げるのは、高橋源一郎君の『日本文学盛衰史』です。僕からザッと梗概を紹介してみませう。
 まづファアストシインは長谷川二葉亭の洋上での死から始まります。場面変はッて二葉亭の葬儀。受付をしてゐた石川一君の前に、鴎外漱石が現はれます。この葬儀に斎藤さんは?
緑雨☆出て居りません。僕の方が先に死んでゐますから。
孤蝶☆さうだッた。さう云へばこの本のラストシインに斎藤さんの死の場面も出て来ましたね。
緑雨☆僕の死亡記事と樋口ナッちやんの日記を君に託したんだよ。
孤蝶☆さうさう。自分で自分の死亡記事を書いたのはあんたが最初で最後だらうネ。
秋声☆ラストシインは圧巻だね。死亡記事のオンパレエド。透谷、一葉、紅葉山人、眉山、独歩、啄木石川一、それに漱石、鴎外、花袋に藤村。死屍累累と云ふか、まさに明治文学の終焉(フィナアレ)の感深しだ。
孤蝶☆長谷川君の葬儀には二百有余名が参列したが、斎藤さん、あんたの葬儀には露伴翁、与謝野さん、それに僕の三人ぎりだッた。
緑雨☆僕の人徳のしからしむるところです。衆寡敵せず、三十六計逃げるに如かず。
孤蝶☆やれやれ。話を元に戻すと、このファアストシインの二葉亭、鴎外、漱石それに石川君を中心に、日本文學の黎明が描かれる訳ですが、ちよッと気になッたのはここに出てくる石川君の歌――


 あほやねん あほやねん 桂銀淑(ケイウンスク)がくり返すまたつらき真理を


 これッて『悲しき玩具』に入ッてましたッけ。
緑雨☆藤原龍一郎君の歌だよ。巻末に引用したッて書いてあるじやん。
孤蝶☆でも、ズルくありません?
緑雨☆かまへんかまへん、たかが小説やないか。
孤蝶☆石川君の「ローマ字日記」に「カラオケでPUFFYを歌った」とありますが、PUFFYッて何ですか?
秋声☆キミ、遅れてるね。倉木麻衣とか知らない? ほら立命館に入学した娘。斎藤君、カラオケくらゐ連れてッてやんなよ、ダチなんだろ?
孤蝶☆いいッすよ僕。孤りで文學やッてますから。
緑雨☆拗ねんなよ、いい歳こいて。「文學々々、あゝこの聲を絶滅せざれば、文學の眞價は世に現はれず」ッて知らないの? ボクが書いたの。
秋声☆然り。而して大文字の「文學」は消滅したが、文學の眞價は未だ世に現はれず。そこでやッてきたのがポストモダアンの漱石ブウム、“漱石は我らが同時代人”ッてやつだ。だけど漱石一番電話は二番三時のおやつは文明堂、またぞろ大文字の文學に回帰しさうな雲行きだッてんで源ちやんが茶々を入れたッて訳さ。「蒲団’98・女子大生の生本番」だろ。真面目な花袋研究家は怒るまいことか。だけどこれが正しい。
孤蝶☆つーと?
秋声☆いいかい。二葉亭が『浮雲』を書いて言文一致体、即ち日本の近代文学がスタアトした。これ文学史の常識。ところがこれが問題含みだッた。中村光夫が『二葉亭四迷伝』でかう書いてゐる。


 我国の文学における近代が本当に始まるためには、彼のように外国文学の魅力を全身に受け、それに憑かれた人間が必要であったのですが、不幸にしてこの孤独な文学の観念を表現に熟させる条件は、彼の周囲の社会にも、彼自身の内部にも備っていなかったのです。


 まア、御維新によッて急激な近代化を余儀なくされた明治期日本に於いて「文學の革命」を志した青年の栄光と悲惨と云ふべきだらう。その後の「日本文学」の一切は、無論僕や君も含めて、二葉亭の長い長い脚注に過ぎない。ところで――
孤蝶☆まだあんの?
秋声☆もうちよッとだ。3分間待つのだぞ。(以下後編) 

  ・・・・・・・・

秋声☆おまた。
 ところで、『浮雲』は春の屋との合作として刊行されてゐたやうに、逍遥坪内雄蔵の『小説神髄』に触発されたものだッた。だが春の屋と二葉亭にはその文學観に些かの齟齬があッた。『小説神髄』には、かう書かれてゐる。「言ハ魂なり文ハ形なり」。即ち「文」と云ふ形に「言(ことば)」と云ふ魂を注入する、その為の俗文だッた訳だ。ところが、長谷川辰ッちやんにとッては形こそ魂だッた。句読点の位置まで同じにツルゲエネフを訳したのはその所為だ。そこでだ、源一郎高橋君はこの本の巻頭にかう書いてゐる。

 
 言語にとって「形」こそが「魂」であるということは、言語は現実の世界とは別の秩序や法則を持っていることを意味していた。言語を用いる以上、「どんなに技倆が優れてゐたからつて、眞實の事は書ける筈がな」く「小説の上ぢや到底嘘つぱちより外書」けないのは、二葉亭にとって自明のことであった。


 つまりだ、明治を舞台にしたこの小説に、マツキヨ、イメクラからブルセラ、果てはEメールまで出てくるのも、花袋がアダルトビデオの監督をやるのも、胃潰瘍で入院した源ちやんの天然色内視鏡写真が出てくるのも、これが「小説」だから窮めて当然のことなのだ。この長篇小説は、巻頭の一節の長い長い脚注のやうなものなのだよ。
孤蝶☆また脚注ッすか?
秋声☆これこそ眞の寫實主義、魂のレアリスムだよ。
孤蝶☆あらあら、斎藤さん、何とか云ッてくださいよ。
緑雨☆この本に出てくる「ヘルス」ッてええやんけ。一ッぺん行ッてみたかッたなア。
孤蝶☆やれやれ。狭斜通を謳はれただけのことはあるやね。
緑雨☆ねえ、馬場君。長谷川君は『浮雲』で「日本の青年男女の傾向」を念頭に置きつつ「現代日本文明の裏面」を書かうと思ッたさうだが、高橋君もこの本で同じことを試みて居るんぢやないかネ。平成言文一致体でね。
秋声☆然り。キミも玉にはいいこと云ふね。『浮雲』の宣伝コピーにはかう書かれてゐる。「一機軸を出して、専ら言文を一途にせん本願にて、極めて通俗なる言辞を選び、まるで平生の談話の如くに人情世態を述べられたる者なり」。これッてこの本のコピーにぴッたしぢやないかネ。
孤蝶☆つまり、平成の『浮雲』ッてことですかね。
緑雨☆『浮雲』よか数等面白いけどね。
                           (2001.07.24)


ロンドンで本を読む

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肉麻(ろうまあ)図譜―中国春画論序説 (叢書メラヴィリア)

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日本文学盛衰史 (講談社文庫)

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