生き難い世に生きる――岩本素白の随筆



というわけで山川方夫の告別式に参列したヤマチューさんの話をつづける予定だったが、今回ちょっと寄り道をして、急遽べつの話柄に振り替えたい。ここを訪れてくださるfew or soの読者の方々にご海容をお願いする次第。すでにここでは何度か触れたけれども岩本素白の随筆を読んでのとりとめのない感想である。


 素白に「壺」と題した短い随筆がある。昭和二十年五月、東京を襲った大空襲で麻布の住いと家財一切を焼失した素白は、勤めていた早稲田大学を辞し、わずかの身の周りの品とともに信州へ疎開する。その頃の起居を記した文章である。
 秋も深まり朝々肌寒さを感じる頃、素白は宿の老女から借りた古い小さな壺に粗朶の焚き落しを入れ、手をかざして暖を取る。少し歪んだ素朴な素焼の火消し壺である。春になればこの壺に露草や野菊や山吹の花などを活けるのも好い。不如意なればこそ、一物に三用を兼ねるとはこのこと、と愛読する木下長嘯子の言葉を素白は思い浮べる。
 師走、粗朶でつくった愛用の杖をついて焦土の東京へ戻る。板橋に住む友人石井鶴三の旧居に落着いた素白は、漸くにしてかつての平穏な日常を取り戻したかのようである。長野から持ち帰った火消し壺に挿した、石井が近くの疎林で剪ってくれた錦木の枝と山茶花を眺めては、素白の心はいつしか幼少の頃に暮した品川宿の陋巷にあくがれいずるのである。
 この壺は、と素白は思う。火消し壺としても手焙りとしても、また花を活けても実用と美しさとを示し、いつもしゃんとした静かな姿を保っている。自分もまたいかなる境地にあろうともこの壺のように静かな姿を示すことができるだろうか。それは難しいようにも、また、なんとかそれに近いもので在り得るようにも、思われる。「生き難い世ではあるが」と素白は書く。


 「如何なる処、如何なる物の中にも美しさと味いとを見出したい。そうしてまた、ささやかながら美しいもの、味いのあるものを創り出したい、物の上にも心の上にも。――そんな希望だけでも残っているうちは、私もまだ打ちひしがれずに生きて行かれるかも知れない」


何の変哲もない素朴な壺のうちに美しさを見出し、その壺のような「ささやかながら美しいもの」をつくりだすという希望が心のうちにあるならばなにものにも耐えて生きて行かれる、そう素白は言うのである。


 もう一篇、同じ頃のことを記した随筆に「こわれ物」がある。
 こわれ物とは皿や茶碗などの瀬戸物のことで、素白はこの一篇を次のように起筆する。


 「損得を先にする今の考え方からすると、昔の人の遣り方はみんなおかしく馬鹿らしいが、それがまた嬉しく懐かしくもある。」


 引越で荷物を送るにも汽車を使うと荷が傷むといって船を仕立てて運ぶのだが、その荷物といえば古箪笥やら古葛籠、馬鹿馬鹿しく大きな鼠入らず(食器棚)といった代々伝わる「がらくた」で、要するに船賃手間賃を考えればそんながらくたを後生大事に持ってゆかなくとも新しいものを買ったほうが効率がよいということになるのだけれども、それは現代のわれわれの「今の考え方」でも同じで、素白の「今」すなわち私の幼少時にはそれでもまだ生きていた「もったいない」という心持がいまではもう絶えて久しい。
 素白は戦火を免れたわずかの「こわれ物」を背負って疎開する。「年寄り達の馬鹿丁寧な遣り方を見ていたので、つまらぬ物でも古く使い来った物を大切にし、それを愛する気持だけは持っていた」からである。そして、祖母の代から使っていた皿小鉢について筆を進める素白の筆遣いはまるで幼少時に戻ったかのように無防備でやさしい。


 「私は子供の時からこのお皿が好きで、自分のお皿の気でいた。お誕生日の時はきっとこのお皿にすきなお肴を入れてくれる。」


 いまはその「お皿」に「お芋の煮ころがし」などを入れて食べるのだが、「御飯が済んでお茶を飲んでいる時、私はきまってお皿やお茶碗を手に取って、その丸みの所へ手をやって」感触を愉しむ。名のある骨董品を愛でるのではない。それらのこわれ物は幼少時の記憶、祖母の記憶へつらなるゆえに素白に愛おしいのである。
 祖母の頃といえば、私たちにとってもはや歴史の時代と呼ぶしかない幕末の江戸であるのだが、そうした時代に生きた人々の心持ちが素白のような人を通じてまだ昭和の中頃までは生きていたのである。そうした心映えをたいせつに思う気持は、保守や革新といった区分けとは別の、敢えて言うなら人としての倫理であると私は思う。
 素白はこわれ物を手にとり「撫でて見たり眺めたりして日を過ごす」。そしてこう思う。


 「こわれ物は丈夫な物より美しい。人というものは「愛する心」を失わない中は、いかなる境遇にも堪えて行かれるものである。愛する心、それは人に対しても物に対しても、また自然に対しても」


 枕草子がそうであるように、徒然草がそうであるように、ここで語られるのは不易の真理にほかならない。文がけして古びないとはそういうことである。こうした文学――ここでいう文学とは人が生きて行くうえでもっとも大切な心持ちを書き記したものの謂いである――に励まされて私もまた、どうにか打ちひしがれずに生きて行かれる、と思いもするのである。
 「壺」も「こわれ物」も刊行したばかりの来嶋靖生編『岩本素白随筆集 東海道品川宿』で読むことができる。


東海道品川宿―岩本素白随筆集 (ウェッジ文庫)

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