先頃入手した一冊の文庫本について書いてみたい。
 佐多稲子著『女の宿・水・人形と笛 他七編』。カバーの表には、大柄の葉をもつ草花と「女の宿」の文字が彫られた版画(芦川保)に、明朝体佐多稲子短篇集という墨文字が乗っている。素朴な味わいのある好い装訂だ。三十年あまり前に刊行された旺文社文庫の一冊で、収録された小説十篇には未読のものも少なくないが、これを購入したのは表題にもなった「水」を再読したいと思ったからである。
 「水」は文庫本にして九頁たらずだが、巻末の解説で坂上弘が「処女作の『キャラメル工場から』をほうふつさせるような素材の「水」は、佐多さんの本領であり、一つの頂点でもあるだろう」と書くように、短篇の代表作の一つといっていいだろう。以前この小説を読んだのは、大江健三郎の『小説の経験』(朝日新聞社)に収められた「中野重治佐多稲子の水」がきっかけである。大江はTVでの連続講演をもとにしたこの評論で、中野重治の短篇小説「日暮れて」と佐多稲子の「水」の二作にともに出てくる水の場面――いずれも鉄道の駅に設えられた水道の――をとりあげて、シクロフスキーの「異化」作用の理論を援用しつつ批評している。とりわけ「水」は、水の場面が一篇の象徴となっていて、引用された佐多の文章とそれについて論じる大江の批評とにつよい印象を受けて、すぐさまその小説を探しだして読んだものだ。
 中野の「日暮れて」はいかにも中野らしい私小説的短篇で、水の場面は末尾にあり、駅のプラットホームにある水道の水を男が飲み、そのあと、上に向って噴き出しているままの水の棒を手で横に払って飲む娘を見て、語り手は「私はちょっと幸福になった。あの子はきれいずきなんだろう……」と思う。大江は、その娘だけでなく「脇でそれを見て元気づけられる中年すぎの男までが、いかにもはっきりとした眺めとして浮びあがって記憶にきざまれ」ると述べ、「それをユーモアのある、しかも苦味をこめた口調で語っている書き手の声もまたしっかりと聞きとられているのを感じるのではないでしょうか」と(TV受像機の向こうにいる聴衆に)問いかける。その書き手の声は、かつてここで取り上げたことのある、「わたしの心はかなしいのに/娘たちはみなふっくらと肥えてい」るという中野の詩(id:qfwfq:20080920)からもたしかに聞こえていたものだ。
 大江のいう「異化」作用とは、ふだんは気にとめることのない日常の場景を読者にくっきりと印象づける、といった意味合いだが、佐多稲子の「水」にあっては、駅で悲しみに沈んでいる娘が自分では意識せずに蛇口から流れ出している水道の栓を閉める、という場面として描かれる。
 娘は、死に目に会えなかった母の待つ田舎へ帰る汽車を待ちホームでうずくまって泣いているのだが、視界をさえぎっている先発の汽車がゆるゆると動きだすと彼女は立ち上がり汽車とは反対の方向に向かってホームを歩き出す。その先には駅員の詰所があってそこの水道の水が先程からあてもなく流れ続けている。娘はそこまで歩いてゆくと蛇口の栓を閉める。勢いよく流れ続けていた水が止まる。汽車はホームを離れ、そこにいままで汽車によってさえぎられていた街の眺めが一挙に展がる。無意識に一連の動作をおこなった娘にその街の眺めは見えてはいまい。娘はまた元いた場所までもどってしゃがみ込み、また同じように泣きつづける。「その場所に、さえぎるものがなくなって春の陽があたった」と結ばれる。
 大江はこの場面についてこう書く。


 「佐多さんの小説で、悲しんでいる娘が栓をしめる水道の蛇口は、まさにものとして鮮明に私たちの意識にきざまれます。ここで娘はむしろ自分でも気がつかない動作として、つまり自動化されたふるまいとして蛇口をしめているのです。ところがいったんそれが描写されると、読んでいる私たちにはその蛇口が自動化作用の霧から抜け出して、ものの手ごたえとともにくっきりと浮びます。そしてどんなに悲しんでいる時でも水が無益に流れているのを見れば栓をしめずにはいられない、そのようなつましさが生活習慣となったこの娘の人柄そのものが、やはり私たちに明視されるのです。」(原文傍点略)


 中野の小説の「水の棒」を中心とする場景とそれは通い合うわけで、ロシア・フォルマリズムの文学理論を援用した読解に異論はないものの、もしも大江にいま少し映画的感性があったならこの場面はさらに見事な映像的文章として称賛されたろう。蓮實重彦が(大江の小説と同題の)映画『チェンジリング』の一場面について指摘したように、汽車の発着するプラットホームという神話的トポスにおいて、佐多は汽車が動き出すアクションにつれて画面が明暗のキアロスクーロとともにどのように変化してゆくかを見事に描き出す。もういちどそのシークェンスを仔細に見てみよう。
 混雑するホームのなかで、そこだけ周囲から隔絶されたかのようにひっそりと蹲り泣いている娘のセミロングショット。汽車の発車を知らせるベルが鳴る。それをしおに娘は立ち上がる。アップでとらえた娘の顔は「色白の皮膚を晒したように赤味を消して、瞼が垂れ、細い目がいよいよ細くなってい」る。娘は「動き出した列車と反対の方向に、重い足で歩き出」す。娘の「肩が歩調にともなって、ゆっくりと揺れ」る。カメラは切り返し、動き出した汽車の窓から娘をとらえるトラヴェリングショット。「彼女はそのとき、列車の窓の視線に自分をあからさまにしたわけだった」。歩いている娘の視線の先には水道から流れ続ける水がある。娘の頬には瞼をあふれた涙が筋を引いている。水と涙のモンタージュ。娘は「水道のそばを通り抜けぎわに、蛇口の栓を閉め」る。ジャージャーと人の神経を逆なでするように「音を立てて落ちていた水がとま」る。あたかも幕を引くかのように汽車がホームを離れてゆくと、薄暗かったホームに陽がさしかけ、街の景色が画面いっぱいに展がる。娘は元の場所にもどって、何事もなかったかのようにまたしゃがみ込み泣きつづける。その場所にレンブラント光線のようにふりそそぐ陽射しのロングショット。


 この小説を再読してあらためて気づいたことがある。性的なアリュージョンである。
 娘(幾代)が五歳のときに父親が亡くなり、母親と一緒に寝ていた娘は母の胸に手を差し入れて乳房をさぐる。母は「いやだッてば」と「真剣な声を立て、身ぶるいして」その手を邪険に払いのける。「そんなときの微妙なことは、幾代にわかるはずはなかった」。
 もう一か所。娘は左脚が短く、それを悪童たちに囃し立てられたりしていた。旅館に住み込みで働きに出て、その誠実な働きぶりに「幾ちゃんはいいかみさんになるよ」と料理人が女中に話すのを娘は聞く。料理人は娘が聞いているのに気づかず、にやつきながら彼女の脚にかんするあけすけなほめ言葉をつけ足す。「幾代はそのときは唇を噛んで涙を浮べた。彼女にはそんなあけすけな評言は、自分の悲しみをひそめた身体の中までずけずけと踏み込まれるようにしか聞けなかった」。
 母親をなくした娘の哀しみは、母への憐みと同時に、支えをなくしてこれから孤りで生きてゆかねばならぬ自身への憐みでもある。性的なアリュージョンは母と娘をつなぐ紐帯としての女の身体を読者に印象づける。佐多はこう書く。「幾代はもう完全にひとりになるはずだった。ひとりになるということは、彼女の身体の悲しみの重さを、ひとりで背負ってゆくことだった」と。うずくまって泣いている娘にふりそそぐ春の暖かい陽射しは、娘の困難な将来にたいする佐多稲子の励ましの思いであるのかも知れない。


女の宿 (講談社文芸文庫)

女の宿 (講談社文芸文庫)