毒舌と老嬢――『目白雑録3』を読む



 いまではもう世界の北野武と呼ばれることのほうが多かったりするビートたけしがツービートという名でかつては漫才をやっていたことを知らない若者も少なくないかも知れないけれど、赤信号みんなで渡れば怖くないだったか付和雷同好きな国民性(は昔も今も老いも若きも一向に変わらない)を揶揄するフレーズが流行語になって「毒ガスなんとか」という本(調べればいいのだけれど、面倒臭いのである *1 )を出して売れっ子になった頃だったか、「アサヒ芸能」でツービートがホストをつとめる連載対談があり、ゲストに横山やすしが来たときにあのたけしでさえ相当にびびっていたという内幕話を録音テープから原稿を作成するためその場に同席していた荒川洋治がエッセイに書いていたのを読んだ覚えがある。荒川洋治は「アサ芸」でソープランド探訪(むろん体験だ!)ルポのような連載もやっていて、フリーランスの詩人というのもなかなか大変だなあと傍目に思ったのだけれど、当人はそれなりにけっこう愉しんでやっていたのかもしれない。毒舌について書こうとしたらついツービートを思い出してしまったのだけれど、毒舌といえばやはり今東光を思い出すのがもはや老年というべき世代(いつだったか谷崎の『蓼喰ふ虫』を読んでいたら主人公の舅にあたる男を作者が老人老人と何度も書いていて相当の年寄りかと思ったらまだ六十前だったのだが、この作品が書かれた昭和の初めの頃なら定年を過ぎた男を年寄りと呼んでなんの不思議もない)にとって当然の連想だろう。しかし今東光の毒舌というのは、おぼろげな記憶でいうならぞんざいな口の利き方をするとかたんに口が悪いとかいったほうが当っているような気がしなくはない。
 金井美恵子の新刊『目白雑録(ひびのあれこれ)3』を読みながら、金井美恵子(と久美子姉妹)といえば連想するのはいつものことながら『毒舌と老嬢』という映画というか言葉なのだが、『目白雑録2』を読んだのはたしか二、三年前のことで馬鹿がひく夏風邪のためにベッドで寝転んで一気に読み終えたことを思い出し(id:qfwfq:20060625)、このたびは春先なのでいくら馬鹿でも夏風邪にかかるにはいささか早く、鞄に入れて通勤の往き復りに少しずつ読んで一週間ほどで読み終えたのだった。
 『目白雑録3』で「私はもともと偏見が強くて差別的なタイプの人間なので」と金井は書く。「あの、ガサツで好戦的でガニ股の女子の柔道とかレスリングというのが大嫌いなのだが、しかし、スポーツとしてもサーカス的なショーとしても中途半端で、本当はエロが売り物としか見えないシンクロとかビーチ・バレーも大嫌いだし、マラソンにいたっては女子も男子も、そもそもあんな闘病的な努力が売りのものは他人に見せるものではないという気がする。考えてみたら、見るのが好きなスポーツはフットボールだけかもしれない」と書くように『2』と同じくサッカーの話も出てくるのだが、今回は生後五ヶ月でやってきた迷い猫トラーがついに十八歳で大往生を遂げたり(最盛期には八キロあった体重が最期は二キロ余になったという)、金井本人も網膜剥離の手術で何度も連載を休んだりと紙面にそれなりの歳月の翳りがうかがえる(毒舌に翳りはないのだけれども)。
 目に悪いので煙草をやめたのもおよそこの二年半の間の出来事で、わたしも最近検査をした腫瘍マーカーの値が高かったので念のために肺のMRIをやって幸いに腫瘍は発見されなかったけれど、いずれ肺気腫になる怖れがあるので煙草はやめたほうがいいと医者に脅かされたのだが、市川崑は名だたるチェーンモーカーだったけれど肺がんにも肺気腫にもならなかった。映画監督でいえばジョン・ヒューストン肺気腫だったらしいが(この本にもそう書かれている)、鈴木清順さんの鼻の管はあれは肺気腫のせいなのだろうか。
 網膜剥離の手術後は外出が億劫になり引き籠りではなくつい閉じ籠りがちになるのだが「そうばかりもしていられないので」金井は朝日ホールで上映中のマックス・オフュルスの『マイエルリンクからサラエヴォへ』を見に出かけ、「こういった場所には完全に間違った知識をトクトクと語る青年(アンチャン)がいるもの」でアナトール・リトヴァクテレンス・ヤングのではない)の『うたかたの恋』の続篇にあたるオフュルスの映画をリトヴァクのリメイクであると「連れに向って」(きっと女友達にちがいない)得意そうに語る青年にエレベーターの中で出会ってしまったりするのだけれど、皇太子の乗っていたオープンカーを幌つき四輪馬車と上映カタログに書いた蓮實重彦の(オフュルスの「回想録」に由来する)ちょっとした誤りを指摘してその「勘違い」のよってきたる所以を「『歴史は女で作られる』(淀川長治はこの映画を認められなかった谷崎潤一郎を面と向って批難するのだった)や、あの本当に忘れがたい大好きな『忘れじの面影』('48)の、魅力的かつ重要なシーンに、馬のあしおとや車輪の軋みやらの様々な音をともなって登場する馬車」に思いを馳せつつ推測してみるくだりなど金井美恵子以外のいったい誰に書けようか。こういう文章を読んでいると(たとえ惰性で読み続けているにしても)なにものにも替えがたい幸福な気分にひたれるわけで、金井美恵子には身体を労わっていつまでも書きつづけてほしいと願わずにいられない。
 「すっかり煙草をやめてしまってから、喘息持ちになり、発作とまではいかなくても、ちょっとした調子に咽喉に痰が絡んで咳込むことが度々ある」というくだりを読むと肺気腫になる危険はあるにしてもやはり煙草はやめないほうがいいのだろうかと思ったりもするのだけれど「ちょっとした調子」は「ちょっとした拍子」の書き誤りではないだろうか。まあ調子でも拍子でもべつだん不都合はないのだけれど、そのあとにつづく「咳をしたり、ガサゴソと落着きなく身動きしたり、ハッカ入りノドアメをペチャペチャゴロゴロ入歯にぶつけるようにして居汚なく舐めていた高齢者たち」の「居汚なく」は正しくは「寝穢く」で、本来は睡眠にかかわる形容詞である。「いじましい」と語感が似ているのでよく間違われるけれど、もはや誤用を指摘されることもない。ともあれくだんの高齢者たちは映画の上映が始まると「眠り込むのである」から、いずれにしても「いぎたない」ことにかわりはないのである。

目白雑録 3

目白雑録 3

*1:『目白雑録3』p.158