武藤康史『文学鶴亀』を読む(その1)


 週末、某所に籠る。終日軟禁状態で二泊を過ごすため、さて何の本を持って行こうかとあれこれ物色し、なんとか決まりかけたところへ畏友武藤康史の新刊『文学鶴亀』が届く。鞄に入れかけた本を本棚に戻し、『文学鶴亀』を仕舞い込む。二段組330頁、相手にとって不足はない、いざ見参。
 緒言に曰く「この二十年ほどのあひだに書いた文章を劉覧に供したい」の言葉どおり、旧くは「すばる」86年3月号に掲載せられた「牧野伸顯」より近くは2005年「東京新聞」夕刊連載の「日本語探偵帖」まで、「書物を読めばその一文一文、一語一語に惚れぼれし、朗読を聞けば間や息づかい一つひとつに惚れぼれし、芝居に行けば科白の一言一言に惚れぼれし、映画館に入ればカメラの一挙一動に惚れぼれする」と帯文に柴田元幸の書く「その惚れっぷりの深さ、律儀さ、熱心さ」に「惚れぼれ」しつつ卒読する。二十年待った甲斐があった。
 武藤康史には過去に『国語辞典で腕だめし』『旧制中学入試問題集』(ちくま文庫)といった著書があるけれども、本書にはじめて収録せられた「批評の細道」(「週刊文春」連載、92〜94年)や「韋駄天漫筆」(「文學界」連載、95〜96年)といった博識無双の批評文は江湖に刊行の待たれていた逸文で、企図せられてより八年越しの上木となる。博捜、目の附処、文章の切れ、いずれをとっても谷沢永一に優るとも劣らぬこれは武藤康史版「紙つぶて」といって過言でない。
 本書にふれる前に、かつてbk1に書いた『明解物語』(柴田武監修、武藤康史編、三省堂、2001)の書評を掲げておこう。



   「新解さんの謎」を解明する労作


 赤瀬川原平の『新解さんの謎』によって、三省堂新明解国語辞典』の語釈のユニークさは一躍有名になったけれども、原平さんが目をつけるずっと以前からさまざまな機会をとらえてはこの辞典の普及宣伝活動に努めていたのが、知る人ぞ知る武藤康史氏である。
 すでに『クイズ新明解国語辞典』正続(三省堂)の編著書を持つ武藤氏が満を持して著したのがこの『明解物語』。本書の内容に立ち入る前に「新解さん」に優るとも劣らぬ武藤氏のユニークさに一言費やしておきたい。
 『吉田健一集成』やら『金井美恵子全短篇』やら『清岡卓行大連小説全集』やらの解題を担当しているところを見れば専門は書誌学らしいのだけれど、ときに映画評論家の肩書で映画について健筆をふるうかと思えばアメリカ現代小説の翻訳も手がけるし、そうかと思えば文人たちの日記・書簡に関しては一家言あるふうだし、『中央公論』誌で連載中の「都立高校の森」を読めば歴史家のようでもあるし、とにかく安原顯氏をして「この人は相当な変人で、日本の古典から辞書、流行語、日記、伝記、書簡集、朗読カセット、学校史等々と、あまり若者が興味を示さぬ領域に異常に詳しいことで知られている」(ブックガイド『恋愛小説の快楽』)と感嘆せしめたほどだ。


 さて本書は、その武藤氏が三省堂の「明解」系国語辞書――『明解国語辞典』『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』――の60年に及ぶ歴史と、その編纂に携わった人々へのインタビューをまとめたものである。とはいっても、無味乾燥な研究書ではない。武藤氏自ら<「明解」系国語辞書の歴史は辞書史、国語史の一齣であるとともに、人間ドラマの蓄積でもあったようだ>としるしているように、本書はきわめて人間くさい逸話に充ちている。
 昭和14年東京帝国大学文学部国文科の恩師・金田一京助の推薦によって、大学を卒業したばかりの見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)が執筆に着手した『明解国語辞典』はその4年後、昭和18年に上板され、<現代語中心の小型国語辞書はこのとき始まった>。『明解国語辞典』の改訂版を土台に昭和35年、『三省堂国語辞典』が誕生する。主幹を務めたのはおなじく見坊豪紀。さらに12年後に『新明解国語辞典』第一版が出るのだけれど、こちらの主幹を務めたのが東京帝大で見坊の同期生だった山田忠雄――御存知「新解さん」である。
 山田忠雄は『明解国語辞典』からすでに見坊豪紀の「助手」を務めていたが、見坊が『三省堂〜』に専念するため『明解〜』の改訂を山田が受け持ち、やがてそれが『新明解〜』となる。わけだけれども、山田忠雄が『新明解〜』初版の序文に「見坊に事故有り、山田が主幹を代行した」と書いたから、さあ大変。それはないだろうと見坊さん怒っちゃった(山田さんは「差し支えがある」という意味で「事故有り」と書いたそうだけれど)。
 それだけじゃない。『三省堂〜』改訂版のために見坊さんがせっせと集めていた用例を、山田さんが勝手に『新明解〜』に使っちゃったのもカチンときた。(おそらく)それやこれやで、その数年後ふたりは「絶交」する仕儀と相成る。山田忠雄亀井孝(著名な国語学者)とも絶交していたそうだけど、「新解さん」ならさもありなん、という気がしなくもないですね。
 平成4年、見坊豪紀死去、享年77。平成8年、山田忠雄死去、享年79。ふたりにそれぞれインタビューした武藤氏は、どちらも<相手のことを悪く言うようなことは一瞬たりともなかった>という。両雄とともに3冊の辞書に関わった柴田武は、こう語っている。<『三省堂国語辞典』のほうは、もうギリギリ、必要にして十分という語釈ですが(略)『新明解』は自由奔放にやってるという感じ。(略)ある意味では対照的なパーソナリティーですからね>。
 人に歴史あり、而して辞書に歴史あり。一読、感懐無き能わず。
                                 (2001.06.28)                                             


 と、まあ、ウェブの読者向けに武藤康史のイントロダクションを兼ねて草した一文であるが、故安原顯が「相当な変人」であると感歎した理由の一つに、ここでは挙げていないけれども、正字正仮名で原稿を書き編集者に渡す際に新字新仮名に書き直す、という逸話がある。かつて本人に確かめたところ然りとの返答であったが、「旧かなづかひ」で書かれた本書『文学鶴亀』のあとがき(はしがきも旧かな)にもこう書かれている。


 「私は高校一年の二学期から旧字旧かなを使つてゐる(夏休みに『谷崎潤一郎全集』を読んで旧字旧かなが乗り移つたのだつた)。二十代後半から雑誌に原稿を書くやうになり、旧字旧かなのまま渡したこともあるが、新字新かなで清書して渡すことが多かつた。いつたんは旧字旧かなで書かないと、書けない、といふ時期が長く続いたが、それでは原稿が間に合はないので、自分をどうにか訓練し、三十代の半ばになつてやうやくいきなり新字新かなで書く度胸がついた。メモのたぐひはさうもゆかず、とにかく気がゆるむと旧字旧かなが出てしまふ。なんとか自分に鞭打つて新字新かなで書いて来たが(新字新かなにも一理ある)、今四十代の終りになつて、自分よりはるかに若いと思はれる編輯者氏から旧かなで書くことを薦められるとは、二十年待つた甲斐があつたといふものである。」


 げにもさあり。むろん本人はちつとも変人と思つてはゐないのである。
                                  (この項つづく)



文学鶴亀

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