松永伍一さんの死を悼む



 松永伍一さんが亡くなった。
 四十年ちかく親交のあった俳優・歌手の西郷輝彦さんによれば、三月二日の夜十時過ぎ、危篤の知らせに病院へ駆けつけたが、十二時十六分、静かに息を引き取られたという(<西郷輝彦のつぶやきblog>)。
 学生時代、愛読した批評家だった。郷里福岡で同級生の川崎洋、水尾比呂志らとともに丸山豊(『愛についてのデッサン』)に師事し、谷川雁に兄事し、詩人として出発したが、上京してのちは農民詩の掘起しやフォークロアに立脚した思想論に本領を発揮した。『底辺の美学』『荘厳なる詩祭』『一揆論』『鮮烈な黄昏』といった評論集は生家の物置に埋もれているはずだ。著書は百冊を超えるという。
 数年前より仕事でお附合いさせていただくことになった。イコンを蒐集し、絵画・コラージュで幾度も個展をひらく多彩な趣味の持主でもあることを知った。端正な字で書かれた、ただの一箇所も書き損じのない原稿に感嘆した、と中井英夫は『悪魔と美少年』(旺文社文庫)の解説に書いている。その字が入院されてからは判読が困難なほど震え擦れているのを見て、惻隠の情を禁じえなかった。
 先月なかば、入院されている病院へお見舞いに伺ったのが最後のお訣れとなった。享年七十七。やすらかにお瞑りくださいと祈るのみ。いまはまだこれ以上のことを書く気になれない。以前、bk1に書いた『モンマルトルの枯葉』の書評をここに掲げて追悼の意を表したい。



      名画に隠された謎を読み解く短編小説集


 「あっ」と思った。テーマは、あの有名なムンクの『叫び』という絵だった。


 「良太は、この「叫び」をずっと以前何かの図版ではじめて見たとき、描かれた人物が叫んでいるのだと錯覚したことがある。それを告白したかった。
 ――楕円形の口が叫びを表わしていると思いましてね。
 すると三木も
 ――いや実を言うと私もそう思ったんです。両手を耳に当てていることを軽視していたんですよ。」


 ムンクは、友人と歩いていたときの衝撃的な体験について日記にこう記している。「その時、突然、空は血の色を帯びた。立ちどまり、私は欄干に身をもたせた。おそろしく疲労を感じていた。(略)火を噴くような雲が、血のようにまた剣のように、青く黒ずんだフィヨルドと街の上を散っているのを見た。友人たちは歩いていってしまった。私は戦慄に震えながら立ちどまっていた。その時、自然を貫く、はてしなく大きな叫びを感じていた」
 その後ムンクを何年にもわたって悩ませる神経衰弱の兆候をあらわす記述といっていい。「あっ」と思ったのは、実は私もあの絵を「人物が叫んでいる」と思い込んでいたからだ。たしかにムンクは「怖ろしい自然の叫び」「天地がひび割れるような音を全身に感じ」、思わず耳を押さえたのであろう。言いようのない不安感、恐怖の形象として、これ以上の作品を私は知らない。それを認めたうえで、なお、叫びはかの人物の叫びにちがいない、と私は思う。耳をふさぎながらも、その「自然の叫び」に身体が抗い難く共鳴し、自らも臓腑を絞るように叫びを発したのではないだろうか。だから見るものの誰もがこの絵に人物の叫びを感じてしまうのではあるまいか――。

 本書には、世界の「名画に隠された謎」をテーマにした三十本余の短編小説が収められている。冒頭に引用した文の、良太とは著者の松永氏、三木は五木寛之氏であろう。それと示唆するように書かれている。だが、評論でなくエッセイでなく、小説として書かれたことによって、文章が微熱を発している。読者との距離をわずかに縮める微熱を。小説という形式の功徳だろう。

 もう一作、三木が登場する作品がある。ポール・デルボーの絵に登場する骸骨の謎を推理した「目覚めた夢」。
 デルボーは三十歳なかば頃、スピッツナー博物館の展示を見て衝撃を受け、骸骨のデッサンを数多く描いた。その後、デ・キリコマグリットの影響下、シュルレアリスムへと傾斜してゆくのだが、スピッツナー博物館の展示を見たおよそ十年後、デルボーは『スピッツナー博物館』という作品を描いている。


 「骸骨の前で乳房をあらわにして恍惚感にひたった女性。この二つの関係はあきらかにエロスとタナトスを表現している」


 デルボーはそこに正面を向いた裸の青年を描き込んでいるのだが、この青年こそ「画家の分身」であり、正面を向いているのは「エロスとタナトスというテーマを直視している」ことの現われだ、と良太は読み解く。
 目覚めた夢。
 画家として目覚めたデルボーは、その後、裸女の登場する夢幻的な絵を飽かず描き続けた。そこにはムンクとはまた違った不安感が色濃くたち込めている。「メメント・モリ(死を忘れるな)」といった存在論的な不安とともに、当時のヨーロッパを覆ったファシズムの暗い予感もまたそこに読み取ることができよう。
 リアリズムの中に反リアリズムを、シュルレアリスムのなかにレアリスムを――。本書に触発されて、私もまた画集をかたわらに名画の謎解きに興じはじめている。読者に対話をうながす稀なる作品集である。 
                                             (2001.11.09)

モンマルトルの枯葉―名画にまつわる三十一の短編小説

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