小説家は寛容な人種なのか、もしくは、ドイツ戦後文学について



 又吉直樹の「火花」は「文學界」に掲載されたときに読んだ。芥川賞候補になる前だったが、いい小説だと思い、好感をもった。ただ、いささか「文学」っぽすぎるような印象があり、そこがいささか気になった。芥川賞受賞後、「文學界」の特集(9月号)を読み、いくつか出演したTV番組を見て(漫才の番組ではない。わたしは彼の漫才を見たことがない)、聡明な人だな、という感想を持った。小説家にしては聡明すぎるようで、そこが彼の弱点かもしれないと思った。そう思ったのは、村上春樹の『職業としての小説家』の冒頭に、「小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではない」と書かれていたからである。
 村上は「頭の回転の速い人々が――その多くは異業種の人々ですが――小説をひとつかふたつ書き、そのままどこかに移動してしまった様子を僕は何度となく、この目で目撃してきました」と書いている。「頭の回転の速い人々」が小説家に向いていないとする村上説の当否については直接その文章にあたって判断していただきたいのだけれど、わたしが村上説をそうかも知れないと思ったのは、芥川賞の選考委員のだれよりも又吉直樹のほうが頭の回転が速く聡明そうに見えたからである。ある種の「頭の回転の速さ」がなければ、生き馬の目を抜くような芸能界で頭角をあらわし生き残ってゆくのは不可能だろう。小説家として「生き残ってゆく」資質は、それとは違うものだと村上は考えているらしい。
 芸人や芸能界の世界を舞台にした小説でわたしが思い出したのは、中山千夏の『子役の時間』と松野大介の『芸人失格』である。いずれもよく書けたいい小説だと思った記憶がある。ずいぶん昔に読んだので「火花」と比較して論評はできないが、遜色はなかったように思う。松野大介はそれ以降も小説を書き続けている(というよりも物書きに転身した)らしいが、中山千夏は数冊の小説集を出して、村上春樹のことばを借りれば「そのままどこかに移動してしまった」。ビートたけし荒木一郎も一時期小説に手をそめて「移動してしまった」才人たちである。
 又吉直樹の小説が村上のいう「多少文才のある人なら、一生に一冊くらいはわりにすらっと書けちゃう」一瞬の火花のようなものにすぎないのか、それともこの先「二十年、三十年にもわたって職業的小説家として活躍し続け」てゆくのか(もしくは池田満寿夫唐十郎のように二足のわらじを履き続けるのか)、見届けたいと思う。

 
 さて、村上のこの文章――「小説家は寛容な人種なのか」と題されている――で、もうひとつ面白いと思ったのは、「小説家の多くは――もちろんすべてではありませんが――円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々です」という断言である。村上は続けて「また見たところ、あまり大きな声では言えませんが、賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向や、奇妙な生活習慣や行動様式を有している人々も、少なからずおられるようです」と書いている。「僕も含めてたいていの作家は」と書いているように、自らを「基本的にエゴイスティックな人種」であると村上は認めているのだろう。わたしにも小説を書く知人がいなくはないけれども、それほど「奇妙な生活習慣や行動様式を有している」ようには見えない。村上は「たいていの作家」を「だいたい九二パーセントくらいじゃないか」と書いているので、かれらは残りの八パーセントに属するのかもしれないが、かれらよりわたしのような人間のほうがきっと「賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向」の持ち主にちがいない(年をとっていくぶん円満になったという気が自分ではしているのだけれど)。
 最近刊行された『廃墟のドイツ1947』という本を読んで、このもうひとつの村上説を思い出した。これは「四七年グループ銘々伝」と副題のついたハンス・ヴェルナー・リヒターの本。四七年グループとは1947年にドイツで結成された文学グループで、「グルッペ47」とも言われる。リヒターはその中心人物で、本書はそのグループの仲間たちのポートレートを描いたものである。訳者の飯吉光夫によると、原著(「蝶たちの曖昧宿で」)では21人の肖像だがすこしカットされて17人が収録されている。
 「四七年グループ」については、日本ではドイツ文学者の早崎守俊が『負の文学――ドイツ戦後文学の系譜』(思潮社、1972)や『グルッペ四十七史――ドイツ戦後文学史にかえて』(同学社、1989)といった著書でつとに紹介してきた。第二次世界大戦で敗戦国となったドイツと日本には共通点が少なくない。ドイツの戦後文学を主導した「グルッペ47」は、早崎守俊も『負の文学』で書いているように、日本では1945年に荒正人埴谷雄高らによって創刊された「近代文学」に相当するといえるだろう。「近代文学」派の小説家・批評家たちが日本の戦後文学を牽引したように、「グルッペ47」には(のちにノーベル文学賞を受賞する二人の小説家を含む)錚々たるメンバーが加わっている。『廃墟のドイツ1947』で取り上げられた小説家・詩人たちのなかから、わたしに比較的親しい名前を拾ってみても、次のような人たちが挙げられる。イルゼ・アイヒンガー、アルフレート・アンデルシュ、インゲボルク・バッハマン、ハインリヒ・ベル、ギュンター・アイヒ、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーギュンター・グラス、ヴォルフガング・ヒルデスハイマー、ウーヴェ・ヨーンゾーン、ハンス・マイヤー、マルセル・ライヒラニツキ、マルティン・ヴァルザー、ペーター・ヴァイス。このほかにも、パウル・ツェラーンやペーター・ハントケらも「グルッペ47」の集会に参加している。
 集会では小説や詩を著者が朗読し、それが「こっぴどい批評」にさらされて「満身創痍になる」こともあったという。村上春樹のいうように「自分がやっていること、書いているものがいちばん正しい」という「エゴイスティックな人種」の集まりだから、さもありなんというべきか。「「四七年グループ」は、彼(アルフレート・アンデルシュ)の見解では、出世主義者の集団で、つねに一人が他をだし抜こうとしており、この出世主義芝居の中心に彼にはギュンター・グラスが立っているのだった」とリヒターは書いている。「(グラスは)「四七年グループ」の集会に毎年やって来、機会はすべて捉えて朗読をし、三年間それをやっても無駄ではあったものの、おめず臆せず、ベルリンまたはパリから、極貧にもかかわらず、やって来た」というから、野心を抱いた若者だったのだろう。むろんグラスは、ヒルデスハイマーが見抜いたように「なみなみならぬ才能」を有していたし、こうと決めたら脇目も振らずに精進する「一種の勉学の天才」だった。そして集会で朗読した『ブリキの太鼓』によって「いわば一夜にして、グラスは有名な作家に成り上がった」のである。 
 いっぽう、アルフレート・アンデルシュは「グルッペ47」の前身ともいうべき雑誌「デア・ルーフ」(「叫び」、「呼び声」とも)以来のリヒターの盟友だったが、飯吉光夫が「無理をして書いている」と評しているように、彼についてはいささか歯切れの悪い書きぶりである。アンデルシュは「野心家だった」とリヒターは書いている。それも並外れた野心家で、「トーマス・マンより有名になることが自分の目標だ」と語ったという。周囲のものたちは「唖然として口をぽかんと開けていた」が、アンデルシュ自身は「困惑しきった沈黙に気がつかず、むしろそれを暗黙の了解のしるしにとった」というから、村上説による小説家の資質を充たしてあまりある。
 ヴィンフリート・G・ゼーバルトは、リヒターのこの回想を引いた後、「たしかに当初、アンデルシュの予想は当たったかに見えた」と書いている(『空襲と文学』白水社)。『自由のさくらんぼ』、さらに『ザンジバル』によって大きな反響と賞賛を得たが、『赤毛の女』において「批評界は二分」され、絶賛の一方で「胸くその悪い嘘とキッチュのごたまぜ」(ライヒラニツキ)と酷評される。ライヒラニツキは次の作品もこき下ろしたため、アンデルシュは「いちじるしく気分を害し」たが、短篇集をライヒラニツキに思いがけず褒められると「あれだけ毛嫌いしていた男に対して、そそくさと愛想のいい手紙を書き送る」。そして、つぎの『ヴィンターシュペルト』にたいしてライヒラニツキがまたもや否定的評価を下すと、アンデルシュはかれを告訴しようかとまで考えたという。ゼーバルトは『空襲と文学』において一章をさいてアンデルシュの作品を懇切に論じているが、訳者の鈴木仁子があとがきで「あまりにも酷ではないか」と記すほど、その批判は身も蓋もなく厳しい。「夢のテクスチュア」(『カンポ・サント』同)と題されたあの発見にみちた繊細なナボコフ論とのあまりの懸隔は読むものに眩暈を生じさせるほどだ。
 ギュンター・グラスに対するアンデルシュの態度は「最初から敵意にみちたものだった」とリヒターは書いている。すでにいち早く「世界的に有名になっていた」グラスへの嫉妬によるものとみていいだろう。グラス以上にアンデルシュ自身が「出世主義芝居の中心」にいたのだから。リヒターはアンデルシュにたいして時にうんざりしながらも彼が死ぬまで長く友情をたもって付き合った。良くも悪くも中庸を重んじる性格だったのだろう。リヒターがここで取り上げている作家たちに比して小説家としてそれほど大成しなかったのは、「基本的にエゴイスティックな人種」であるといった作家としての資質を欠いていたからなのかもしれない。本書はそれをよく証だてているといっていい。


職業としての小説家 (Switch library)

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廃墟のドイツ1947: 47年グループ銘々伝

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