眠れゴーレム


 五、六年前になろうか、寺山修司未発表歌集と題された『月蝕書簡』が岩波書店から刊行されたのは。寺山修司が晩年に作歌したものを田中未知が編纂した遺稿集であるという。この本の出版を新聞広告かなにかで見たときに、わたしのなかに危惧するものがあった。しばらくは打ち捨てていたが、ある時(怖いもの見たさといった)誘惑に抗しきれず、手に取ってみた。そこにあったのは無惨な歌の残骸だった。わたしは、わたしの危惧を確かめるためだけにこの歌集を手にしたことを後悔した。寺山さんは晩年に至って――本人は晩年と意識していなかっただろうが――なぜこのような拙劣な自己模倣にすぎぬ歌を詠んでみようと思ったのか。それだけがわたしのなかに謎として残った。
 『寺山修司青春歌集』(角川文庫、一九七二年)の解説で、寺山を世に出した名伯楽中井英夫がこう書いている。
 

 「寺山修司は十二、三歳のころに作歌を始めたらしいが、その短歌が初めて世に現われたのは一九五四年(昭和二十九年)十一月のことで、部厚い全歌集が発刊されたのは一九七一年一月、といっても、歌のわかれ(ややあいまいな)を宣言した跋文の日付は七〇年十一月となっているから、ちょうどまる十六年間、公的な短歌の制作発表が続いたわけである。この文庫版は『青春歌集』と銘うたれているけれども、その間のすべての作品が収録されている。」


 寺山修司の歌のすべてはこの二百頁に満たない文庫本のなかにある。「月蝕領主」を自称した中井英夫がこの『月蝕書簡』を見ずに逝ったことがせめてもの幸いと思われた。
 

 ここで何度も書いているので聊か気が引けるけれども、岩波「図書」の斎藤美奈子の連載「文庫解説を読む」、9月号では伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』と寺山修司の『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』を取り上げて対比している。『退屈日記』の解説は関川夏央、『女たちよ!』は池澤夏樹(いずれも新潮文庫)。「二冊の本の解説は、もう一編の良質なエッセイとして読めるものに仕上がった」という斎藤美奈子の評価にわたしも異論はない。関川とそう歳のはなれていないわたしにも、伊丹十三の書く「スパゲッティの正しい食べ方」は衝撃的だった。甘ったるいケチャップにまみれた西洋風いためうどんしか知らない高校生に、スパゲッティはアル・デンテでなければならぬと伊丹十三は懇切に説き聞かせたのである。「スパゲッティについての彼の講釈は、四十年を経たいまでも、私の脳裡にはっきりと刻まれている」と書く関川に、どれほど多くの同世代の読者が大きく頷いたことだろう。
 一方、『家出のすすめ』の解説は竹内健、『書を捨てよ、町へ出よう』は中山千夏(いずれも角川文庫)。斎藤美奈子はこの二冊に対し、いずれも「知己であることに寄りかかった解説」であり「完全に解説者の選択を誤った」と書く。竹内の解説には寺山との私的な交友だけでなく、家=故郷からの離脱を「己の思想の糧」とした寺山と、農村の過疎化といった現在(この解説が書かれたのは四十年以上前だ)の社会状況との関わりの指摘もあるにはあるけれど、斎藤美奈子の評価にわたしもおおむね首肯する。だが斎藤が「伊丹のエッセイは解説の力で輝き、寺山のエッセイは解説の力で輝き損ねているのである」として「若者へのメッセージを込めた本の解説は、その当時若者だった「正しい読者」にしか書けないのだ」と結論するとき、聊か性急すぎる気がしないではない。 
 斎藤が寺山の二冊に対して「なぜこんな人たち(といっちゃうが)に解説を依頼したのだろうか。もしくは二〇〇五年の改版時に、なぜ新しい解説者を立てなかったのか」と書いているように、要は解説にも賞味期限があるということだろう。伊丹十三の二冊はいずれも二〇〇五年刊だが、寺山の『家出』は一九七二年、『書を捨てよ』は一九七五年といずれも四十年ほど前のもので、十年前の伊丹十三の二冊に比べると、どうしても古いという感が否めない。もちろん古いのは解説であって、本文じたいは四冊とも六〇年代に書かれたものだが、風俗もしくは時代のファッションのようなものを別にすれば決して古びず、長く読み継がれるにあたいする名エッセイである。
 ちなみに寺山修司の『幸福論』(角川文庫、一九七三年)の解説は佐藤忠男。「思想の科学」出身の評論家らしい堅実な解説で、それはそれで悪くはないが、次のような箇所にはやはり時代を感じさせる。
 「世の中には、さまざまなかたちで差別され、疎外されている人間がいる。オカマ、ホモ、娼婦、トルコ嬢、彼ら、あるいは彼女らの多くは、自分を不幸だと思っているだろう。」
 大江健三郎は初期短篇を全集(「大江健三郎小説」新潮社)に収録する際に「トルコ」を「ソープ」に変更したが(「女ソープ師」という珍妙な表現は大江らしいユーモアの表われか)、大江にせよ佐藤にせよ、言葉を言い換えればいいという問題ではない。最近も『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)で、「奇妙な仕事」の「私大生」を「院生」に変えたが、作品の歴史性を無視した改悪というべきだろう。


 さて、話を冒頭の寺山の「歌のわかれ」に戻せば、中井英夫は解説で『寺山修司全歌集』の跋文――「こうして私はまだ未練のある私の表現手段の一つに終止符を打ち、『全歌集』を出すことになったが、実際は、生きているうちに、一つ位は自分の墓を立ててみたかったというのが、本音である」――を引いたのち、こう述べている。


 「(略)この生きながらの埋葬は結構なことだし、第一、いつまでも歌人でいる必然性は彼にはない。消えない歌人のふしぎさはいやというほど例のあることで、墓の中に横たわりながらも、いま一度どうしてもという使命感につらぬかれたときだけ、巨人ゴーレムさながらに土をふりはらって起きあがればいいのだ。」


 「消えない歌人のふしぎさ」とは短歌誌の編集者として中井英夫が嫌というほど目にした、曲がない身辺雑詠を飽きもせず作り続ける「おびただしい中高年齢層歌人」のことで、そうしたなかへ十代の寺山が「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」といった清新な歌を引っさげて颯爽と登場したのだから、中井英夫が「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりに、アフロディテめく奇蹟の生誕をした」と歓喜したのもむべなるかなといわざるをえない。だが、「巨人ゴーレムさながらに土をふりはらって」起きあがった寺山の『月蝕書簡』におさめられた歌のどれひとつとして、わたしには「いま一度どうしてもという使命感につらぬかれた」歌とは思えなかった。
 たとえば『月蝕書簡』の、
  地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな
 と、『空には本』の、
  夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず
 とを比べてみれば優劣は一目瞭然である。就中、前者の切れ字は最悪である。

 ――塵にふすものよ醒めてうたうたふべし、か。
 「ああどうか
  眠り続けてくれたまえ
  あした枕辺には
  何もないから
  詩なんか一片だつて
  載つてやしないから」(中井英夫『眠るひとへの哀歌』)


寺山修司青春歌集 (角川文庫)

寺山修司青春歌集 (角川文庫)