長谷川四郎のソング



 5月7日金曜の夕刻、不忍の旧安田楠雄邸で催された<音楽と朗読の夕べ・長谷川四郎のソング>に出かけた。南陀楼綾繁さんの企画で、長谷川四郎の詩や短篇小説を黒テントの俳優・久保恒雄さんが朗読し、詩に曲をつけた平岩佐和子さんがピアノを演奏しながら独唱するという集い。長谷川四郎全集の編集者・福島紀幸さんや装本家・平野甲賀さん、小説家の小沢信男さんたちもいらしていた。
 詩が朗読され、それが曲にのって唄われる。そのくりかえし。目を瞑って聞いていると、なんだか気持いい。朗読された短篇小説は「猫」「二人の祖母の話」それに「ぼくの伯父さん」。目で読むのと耳で聞くのとでは、おなじテキストでもずいぶんと感じがちがう。耳からはいってくる文章に、あらためてとても乾いた文体だなあと思った。


 「八十年輩の男が町の見物にやってきて、ついでに私のところに立ちよっていった。九十キロほどはなれた山のふもとで県営の種畜場の獣医をつとめている人だった。日にやけた小柄な老人で。それが、たしか、さきおととい。日曜日の午後、私が本を読みながら廊下をいったりきたりしていると玄関の戸があいて彼が、入ってきたのである。行商人のように上がりカマチに腰かけて。自己紹介してから、わしはあんたの伯父ですと言った。」   (「ぼくの伯父さん」)


 とりたてのイワシをオリーブ油であげてたべましょう、と「私」が男をさそうくだりで、なぜだかリンゲルナッツを思い出した。長谷川四郎の詩とリンゲルナッツの詩が似ていると思ったことはなかったけれど、もしかすると近縁の詩人なのかもしれない。こんど読みくらべてみよう。四郎さんはリンゲルナッツの詩を読んだだろうか。
 それと、もうひとつ気づいたのは描かれている世界に無国籍な感じがすることだった。日本が舞台とも思えないが、かといってどこか外国が舞台になっているという感じもしない。コスモポリタンな感覚といったほうがいいだろうか。「土着と情念」といったものの対極の世界。この感じは、ウェットでない、乾いた文体ということとも関連があるのかもしれない。そして、これは長谷川四郎が函館で生れ育ったこととも大いに関わりがあるのではないだろうか、と思った。兄の長谷川海太郎谷譲次)や、やはり函館生れの久生十蘭らにもコスモポリタンな感覚は共通している。
 これは思いつき以上のものではないけれど、港町、それも函館や横浜や神戸といった外国との交流の盛んな港町で育った作家には、どこか似通ったところがあるような気がしないでもない。神戸で育った村上春樹の初期の小説にも、神戸―小樽―逗子と転居した石原慎太郎の初期の小説にも、乾いた、無国籍な感じがあるように思う。これは作家としての共通の資質といってもいい。
 村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』で、長谷川四郎の「ちょっと突き放したようなクールな文体」は「翻訳作業の中から自然に生まれてきた」のではないかと述べている。「その直接のルーツは伝統的日本文学の中にではなく、むしろ他国言語の表現形態の中に見受けられる」と。もちろんこれは村上春樹自身にもいえることで、村上が長谷川四郎のなかに自分と同質のものを見ているということの証左になるかもしれない。
 おもしろいのは、長谷川四郎には「存在の狂気」とでも呼ぶべきものが不足している、という指摘だ。吉行淳之介小島信夫安岡章太郎やといった(『若い読者のための短編小説案内』で取り上げた)作家たちには「説明しようのない精神のマグマのようなもの」があり、それが彼らを「否応なく前に駆り立てて、彼らの小説を小説として成立せしめている」のだが、長谷川四郎の小説からはそれを窺うことができない、と村上はいう。その「狂気の不在」は、長谷川四郎の資質のせいなのか、シベリア抑留によってもたらされたものなのかはわからない、と村上は述べているけれども、その少しあとで述べているように、その苛酷な抑留体験は、長谷川四郎自身「俺の居場所」として自ら望んでいたふしがある。かりに、長谷川四郎に村上のいう「存在の狂気」のようなものがあったとしたら、シベリアものの小説はおそらくもっと違ったものになっていただろう。
 <音楽と朗読の夕べ>の会が終わった後、場所を移してすこしお喋りをたのしんだ。わたしはここに書いたようなこと(のうちの幾つか)を話したのだが、福島紀幸さんが、長谷川四郎のシベリア抑留体験はけっしてルサンチマンにはなっていないといったような意味のことを話されたのが印象に残った。高杉一郎内村剛介石原吉郎らのシベリア抑留体験とどこがどうちがうのか、いちど考えてみなければならない。村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』でシベリア抑留体験者を登場させたことの意味も。そういえば『ねじまき鳥クロニクル』もまた「1984年」の物語である。