この世界の向う側で――唐十郎追悼

 

 唐十郎が亡くなった。ポール・オースターも。

 唐十郎は車椅子に乗った姿を映像で見ていたからそれほど驚きはなかったが、ポール・オースターは(肺がんだったらしいが)突然のことで驚いた。5月12日の朝日新聞に掲載された柴田元幸さんのオースター追悼文によれば未訳の作品がまだまだあるそうで、柴田さんの翻訳による刊行を心待ちにしたい。個人的にはスティーヴン・クレインの評伝(Burning Boy, 2021)を読みたいと思う。 

 朝日新聞の同日紙面の「日曜に想う」というコラム欄に、編集委員吉田純子さんが「日常の隣の祝祭 唐さんの紅テント」という見出しで唐十郎について書いていた。吉田さんはわたしよりずいぶん若く、唐十郎状況劇場が活動を始めたころはまだ生まれていなかったはずだが、唐十郎について書こうとすると妙に肩に力がはいってしまうらしいのがおかしい。たとえば――

 唐さんにとっての演劇は、魂の自由を賭けた遊びであり、アングラは「個」を叫ぶ人々の連帯の狼煙(のろし)だった。紅テントは現実世界のパラレルワールドで、世の中の常識を疑う思考実験のための仮想空間だった。

 あらら、「魂の自由を賭けた遊び」ねえ。「連帯の狼煙」ですか。あの時代(60年代後半~70年代)を同時代として生きた者には、政治ビラや立て看に角張った略字体で書かれていたようなこの手の言い回しは恥ずかしくてとうてい使えない。おそらく吉田さんが脳裡にイメージする「あの時代」とはこうしたものなのだろう。間違っているとはいわないけれども、いま書くならこのような大仰な書き方はしないだろう。紅テントのなかはたしかにパラレルワールドというべき異空間だったし、そこで演じられている芝居は常識などものともしないヴァーチャルリアリティに充ちたものだった。でもね。

 唐さんが唱えた「特権的肉体論」は、ありのままの自分を生きる人々を「存在者」と呼んで応援した俳人、故金子兜太さんの哲学とどこか豊かに響き合う。

 そうかもしれない。が、「特権的肉体論」にも金子兜太にも縁のないヒトにはなにひとつ伝わらない呪文のたぐいでしかないだろう。読者を選別する内輪向けの言語というべきで、少なくとも「特権的肉体論」とはどういうものかを説明しなければこの文は意味不明である。

特権的肉体論」とは、唐十郎の、あるいは状況劇場のキャッチフレーズのようになっているが、必ずしもわかりやすい概念ではない。1968年に現代思潮社から刊行された『腰巻お仙』の冒頭に収録された10篇のエッセイを束ねる章題として使われていたものだ。同書の巻頭に置かれた「いま劇的とはなにか」というエッセイにこうある。

 もし、特権的肉体などというものが存在するならば、その範疇における一単位の特権的病者に、中原中也は位を置く。

 中原中也を指して特権的肉体というのではない。中原中也はかりそめに召喚されたにすぎない。唐十郎にとって特権的肉体とは集合的概念ではない。すなわち、共通する特質を有する複数の具体的存在の呼称として編み出されたものではない。そうではなく、「太初にことばありき」とでもいうように、まず特権的肉体というものが世界に降りてきたのである。そして、おもむろに「特権的肉体などというものが存在するならば」と唐の思念が駆動しはじめる。それが唐の迷宮のような演劇やエッセイをつらぬく棒のごときものなのである。

 もし、この世に、特権的時間という刹那があるなら、特権的肉体という忘れ得ぬ刹那もまたあるにちがいない。

 かつて文学が、血みどろの中で掘り当てたものが前者であるなら、演劇が、役者をつかって、奈落をくぐり抜けさせ、舞台に現前化させようとしたものこそ、その時代の特権的肉体というものではなかろうか?            

                       (「石川淳へ」)

 すなわち、演劇の前に、役者という唯一無二の肉体が存在する、それを特権的肉体と呼んでみるのである。

 

 ちなみに、わたしが初めて状況劇場の芝居を見たのは1971年、『あれからのジョン・シルバー』だった。渋谷公園通りの駐車場に設営された紅テントのなかは、異形の役者たちが発するエネルギーで熱気に溢れていた。唐十郎を筆頭に、李礼仙、根津甚八大久保鷹不破万作、そして四谷シモン麿赤児。物語の内容はしかとわからなかったが、意味不明なセリフを聞き取れないほどの早口で口角泡を飛ばしてまくし立て、舞台上を、そして地べたに坐った観客の間を縦横無尽に駆け回る役者たちの強烈なキャラクターに度肝を抜かれた。それはまさに特権的肉体と呼ぶしかない存在が奈落をくぐり抜けて出現した刹那だった。

 舞台上ではない唐十郎には一度だけ会ったことがある。大学を出て書評新聞の編集者になったわたしは、学術書、文芸書の書評欄を経て最終面の芸術欄(映画、演劇、舞踏、美術などのレビュー)の担当になった。状況劇場の芝居を紙面に取り上げる際は事前に挨拶に行くことという前任者からの申し送りで、阿佐ヶ谷だったかにあった状況劇場の稽古場に一升瓶をさげて挨拶に行った。行ったことはたしかに覚えているけれど、それ以外はもはや記憶にない。

 1978年に青山公園でテントを張った『河童』の公演であったと思う。劇評の執筆を依頼した赤瀬川原平さんといっしょに、地下鉄の乃木坂から歩いて行った。辺りは墓地が近くにあるひっそりとした場所だった。芝居はまったく記憶にないけれど、原平さんに書いてもらった劇評の冒頭の文句だけはいまでもよく覚えている。「梓みちよはずいぶん寂しいところでいい女と呼ばれているんだな」。

「乃木坂あたりでは、わたしはいい女なんだってね~」と梓みちよが歌う『メランコリー』がヒットしていた頃だった。

特権的肉体論」で唐十郎はこう書いている。

 大切なことは、お客を、この世界の向う側へ放り出してしまうことです。                             

                         (「夢判断の手品」)

 唐十郎は死んではいない。この世界の向う側で、まだ見ぬ新作を引っさげてわたしたちを待ち伏せしているにちがいない。あの不敵な笑みを片頰に浮べて。 

 オースターについては、いずれまた。