しかしジャスミンは咲いている



 ほとんど要約を許さぬ文章というものがある。桶谷秀昭の「含羞の文学」*1という短いエッセイ――というよりもこれは随想というに相応しいが――もそのひとつで、これについて触れようとすればほぼ全文を書き写すしかないが、そうもゆかないので覚束ないけれども(そして原文の味わいを損なうけれども)敢て要約してみよう。
 桶谷はかつて短い中野重治論を書いて中野自身から「抗議の葉書を貰つた」ことがあるという。「老いて往年の志気をなほ失はぬ中野重治」と書いた「老いて」が中野の意に染まなかったのだろう、「老年だの晩年だのを動かしがたい実体として認めることを拒否する」のが若い頃から「鋭敏な年齢感覚」をもつ中野の人生に向かう姿勢である。にもかかわらず、中野の「ちりがみ交換」という短篇小説は、「さういふ激しい主観を含めて、作者が晩年にあることをまぎれもなく示してゐた」と桶谷は書き、その小説の一節を引用する。孫引きすると、


 「これから先きどうなるかまだわからぬがと思つてきて――しかしジャスミンは咲いている。――彼は自分の仕事のことへまた思いが及んで行つた。
 醇乎として醇なるもの――それは無理だ。力がない。」


「壮年までの中野重治は」と桶谷は書く。「自分の過去と未来についてペシミストでありつつ、「さびしく奮いたつ」人であつた」と。だが「ちりがみ交換」の主人公は「ぼんやりと考へ込んでゐる」。その老いた主人公と孫たちとのなにげない遣り取りを取り上げて「ここの描写が胸をうつのである」というその描写には、日常の取るに足りぬ平凡な情景でありながら「平凡以上の何かを伝へる」という点で、桶谷はそう書いてはいないが小津安二郎の映画に通じるものがある。「省略してもいいところを想ひをこめて描く。しかしここは省けないのである。愛情といふものの哀しみをこれは深切にあらはしてゐる」と。
 主人公の細君が「仕事用に常用してゐる春慶塗の弁当箱」――原泉さんはいつもその弁当箱を持って仕事場へ行ってらしたんだな、と遥か昔に一度だけお会いしたことのある原さんが劇場やスタジオの控室で弁当箱をひろげていられる情景に思いを馳せ、わたしはなにがなし心の洗われる思いがする。小説の読み方としては邪道であるけれども――を孫に見せながら「おばあちやんが死んだら、これどうしようかなア……」というと、孫は「おばあちやんがね、死んだらね、おぢいちやんね、これ、ちりがみコーカンに出したら……」という。
 以下の桶谷の文は、中野の小説の引用をも含め要約不能なので聊か長くなるがそのまま掲げる。


 《孫の無邪気な言葉が期せずしてもたらした惨酷なユウモアが、主人公に自虐感情を生まず、淡い諦念と悲哀を生む。
 「ある時間の遠い遠い遠さのなかで、人、仕事にたいして、評価の自然な変化が生じるかも知れぬことをうつらうつらして思つた。そしてまたすぐ眠りに落ちた。」
 かういふ淡い哀しみを、当節の、あるいは後世の人々はどのやうによむであらうか。「ちりがみコーカン」くらゐのものとしか認めないであらうか。
 淡い哀しみは浅薄な感情ではない。それはそれを抱く人の含羞に由来するのである。》


 「遠い遠い遠さのなかで」がいかにも中野らしい。こうした「淡い哀しみ」は説明のできるものでなく、小説を読んで、あるいは映画・演劇を見て、感じるしかないものである。それは読者や観客がその作物のもつ「淡い哀しみ」に共鳴するのであって、琴線に触れるとはそういうことだろうと思う。「含羞」を抱かない読者や観客にとってそれは無縁のものであるしかない。
 桶谷がつづけて書く「中学生同級生」という中野の小説の一場面――火災にあった同級生の家を中学生の主人公が訪ねると、家財道具が田圃に積んであり、そこからかすかな音がする――にもそれが端的に表れている。


 《「風が吹いていて、田んぼ路においてある琴の弦がひとりで鳴つているのだつた。」
 これはたつた一行である。かういふ文章に出会ふことが、中野重治をよむよろこびである。ここにも作者の含羞が匂ひ立つのである。》


 ここでは琴の音がまさに主人公の琴線に触れたのである。この一行に主人公である少年の抱いた「淡い哀しみ」(それはむろん作者のでもある)を読み取ることが小説を読むよろこびにほかならない。
 桶谷はさらに中野の別の二作品にかんたんに触れたのち、この文章をこう締めくくる。
 「中野重治はいいなあ、と改めて思ふ。」
 老年に到り、なお「老年だの晩年だのを動かしがたい実体として認めることを拒否する」中野の姿勢に、サイードの「レイト・スタイル」を想起する。いうなればそれは「成熟した晩年」という幻想にたいする反措定である。わたしもまた晩年か否かは知らず「これから先きどうなるかまだわからぬが」と思いつつ、中野の人生に向かう姿勢に学びたいと思う。
 ――しかしジャスミンは咲いている。

*1:中野重治全集第二十五巻の月報に書かれたもの。