わたしの心はかなしいのに


 前々回、斎藤美奈子の時評をめぐって感想をしたためた。わたしの意図したのは時評の批評であったが、そこに取り上げられている小説を読みもせずにつまらないという印象を与えるような書き方は如何なものか、とのコメントをいただいた。そのことについては手短にお答えしたが、そのコメントがきっかけで、それらの小説をちょっと覗いてみようかという気になった。文藝誌に掲載された小説を読むことなど絶えて久しい。「群像」五月号――どうでもいいようなことかもしれないが、表紙と背には李恢成と中沢新一の名前が並んでいるだけで、百七十頁余を費やした新鋭創作特集は掲げられていない。せめて表紙では五人の若い小説家たちの「力作」を掲載するのだという編集部の意気込みを見せてもらいたいものだ――を手に取ってぱらぱらとめくってみた。


 《ガバ!
  股を開かせて早くも交合を開始した。肝心の結合部分は暗がりに溶けて判然としないが、ほどなく慶子の方も自ら腰をうねらせて応え、吐息こそ洩らさぬものの、その顔には眉間のあたりから快楽の蜜が甘美にとろけて、それを求め味わうように唇は薄く蠢いている。しかし気掛かりなことに、中年男はせっかくハメた腰を碌に動かさず、やや腰に負担の掛かりそうな体勢にもかかわらず胸の谷間に鼻を埋め、優秀な麻薬捜査犬の如く職務意識をもつ獣の風格で極めて狭い範囲を攻める。(略)》(木下古栗「教師BIN☆BIN★竿物語」)


 これは「俺」の一人称の語りであるけれども、「俺」が抱えている何らかの精神的難題を反映した文体なのだろうか。あるいはある種の小説の文体のパロディなのか。≪西洋の女を激烈に打ちのめす渡辺の性行動はまさに、性のメジャーリーグで日本人初のホームラン王になる偉業に喩えられるだろう。》(同)
 おそらく前者なのだろうと判断して、次へ進む。
 「ちへど吐くあなあな」は、斎藤美奈子が書いているように「トイレで血を見て月経が戻ってきたと喜ぶ老女と無月経であることにコンプレックスを抱く若い女が語り手」の「妄想炸裂系」小説。


 《さっきから、やろうって気持ちが全然起こらない。彼にその気がないせいじゃない。そういう男に遭遇してしまったときは私は泣きそうになるほど焦って、はやく触らなきゃはやく舐めなきゃはやく粘膜に指を突っ込まなきゃって、いてもたってもいられなくなる。そのせいで何回も仕事を変わらなきゃならなかった。》(小林里々子「ちへど吐くあなあな」)


 長い。二段組五十頁を妄想の語りで読ませるには相当の技倆を要するのだが、新人の小説家には聊か荷が重い。読み続けるのを中途で挫折する。野坂昭如の初期の小説を熟読してから再チャレンジされたい。それにしてもどうしてこう誰もが発情しているのか。


 《わたしは自分がそうされたようにミオのヴァギナに指を入れ、そして、舐めた。自分の肉体が液状化してミオの肉体の中へ溶け込んでゆくかのような、あるいは自分固有のものであったはずの肉感をミオと共有しているかのような、摩訶不思議な感覚に終始囚われていた。》(桜井鈴茂「転轍機」) 
 《岸田さんは布団を敷いた。わたしは上着を脱いで先に横になり、目を閉じた。衣擦れの音を、シンクを叩く水音を、靴下が畳を撫でる音を聞いた。すぐに岸田さんも布団に入った。長いキスをして、わたしの肩に、腕に、胸に、腹に触れる。深く、長く呼吸をして、肌に岸田さんの手のひらを感じながら、ただじっと仰向けになっていた。》(松本智子「ちんちんかもかも」)


 斎藤美奈子が「ほのぼの日常系」というようにベッドシーンこそ「ほのぼの」だけれども、「ちんちんかもかも」は他の四作品(斜め読みでしかないが)に比べると安定した筆力を感じさせる。読みつつちょっと絲山秋子を思い浮べた。
 語り手(トモ)が兄の恋人(順子)たちと一緒に海辺の公園へバーベキューに行く場面。
 《トモさんですね、と順子さんが話しかけてきた。トモさんのことよくうかがってて、一度お会いしたいと思ってたんですよ。はあ、とわたしは頭を下げた。》
 バーベキューが始まって、少しうちとけて、
 《順子さんがコンロの方へ歩いていく。ひらひらと揺れるスカートが、陽の光にいっそう白く映える。かすかに下着のラインが透けている。トモちゃんもおいでよ、と順子さんが振り返る。もうトモちゃん(3字傍点)ですか、と思いながら近寄ると、順子さんはわたしにだけ聞こえるよう、小声でささやいた。トモちゃん、でもねえ、夜遊びも気をつけてね、なんせほら、オトコはみんなケダモノだから。順子さんは、いたずらっぽい顔をつくって微笑んだ。》
 このあたりにこの小説の技術点の高さがある。あくまで技術点ではあるけれども。松本智子については、もう一作読んでみてもいいかなと思った。


 文藝誌の小説につきあうのも楽じゃないと思いつつ、中野重治の「ちりがみ交換」を読む。 前回、桶谷秀昭の文章から孫引きしただけで、中野の小説じたいは読んでいなかったからだ。
 孫引きした中野の「醇乎として醇なるもの――それは無理だ。力がない。」に以下の文がつづく。


 《想像力はあるか。それはある。ただ抽象的にある。想像力が画像として肉化されるための基礎条件がない。曾田にはひろい生活経験がない。ひろい生活知識がない。そのうえ追求ということでの力がない。(曾田とは中野とほぼ等身大の主人公の名である――引用者)
 ぼんやりしたままで彼は同年輩の作家たちのことを考えた。いろいろの人がある。いつまでもやきやきして奮闘しているのがある。それこそが立派だ。作家はそうあらねばならぬ。それとちがって、じつにたのしく回想を書いているものがある。それが読んで楽しい。その楽しさのなかに大事なものがある。あるらしい。》


 曾田はある時、葬式に出席する。そこで、死んだ若い女の継母のあからさまな「作り泣き」を見る。「それは曾田に、事情がわかっているだけにいまいましい情景だった」。しかし、とはいうもののそうした「卑俗な演出を彼女に強いたものがなかったのではない。それはいっぱいにあった。曾田のいまいましさそのものにすでに条件があったろう」。曾田は「あれだな……」と、かつて新聞に書いた「女のありさま」というコラムを女友達に批判されたことを思い出す。


 《曾田の女友達が「何よ、あれ。オ、ン、ナ、ノ、ア、リ、サ、マ……」と噛んで棄てるようにいった。
 曾田は日本の女と東ドイツの女とを比べていた。日本の女が公共の仕事で働くようになり、その率がずっと高くなったが、ドイツのこれこれに比べるとまだまだ低い。もっとしっかり……
 その傍観者的な態度が彼女を腹立てさせたのだったろう。》


 批判されたその場では言葉に詰まったが、曾田は「人民権力の在不在に触れずにそんなことを書いたのは原理的に誤っていただろう」と思い返す。そしてその反省が葬式での自分の態度にも適用される。いや、適用されなければならぬ、と考えるのが曾田=中野の「原理的」な立場である。


 《じっさい、わけても葬式なんかに、世間的・歴史的な条件が、それも弁解しにくい俗悪で非道な形でひしめいて寄せてくることを見なかったなんて。焼香争いということさえ、切実な利害問題として、それも道理に叶ったこととしてずっとあった……》


 曾田は、かつて幸徳秋水がロシアの革命家の女性と比べて日本の女性を貶めた際に、その場にいる日本人女性に批判され(「日本には男子でもソンな方はありますまい」)、すぐさま訂正したことを思い出す。


 《つまるところ本当の追求がない。それさえあれば、微小な人間の回想にも楽しい美しさが生れる。まわりからとなかからとの、しかしなかからのを軸としての追求、しかしつまり藝術的創造そのもの以外でないじゃないか……》


 本当の追求。それは藝術的創造の要諦である。そんなわかりきったことを、晩年の中野重治にして、あらためて銘記せねばならないのである。
 「彼は庭を眺めている。ジャスミンが咲いている。それから合歓木の花が咲いている。」
 ジャスミンはある歌手から細君がもらってきたものである。人からもらった木や花を庭に植える。「それを植えて根がつかぬと何となし不徳の致すところという気になる」。しかし、ジャスミンは「猛烈に咲く」。
 「これから先きどうなるかまだわからぬが」と思いつつ曾田が眺めているジャスミンの花は、運動場をとびはねる娘たちをわたしに思い起こさせる。


 「わたしの心はかなしいのに/ひろい運動場には白い線がひかれ/あかるい娘たちがとびはねている/わたしの心はかなしいのに/娘たちはみなふっくらと肥えていて/手足の色は/白くあるいはあわあわしい栗色をしている/そのきゃしゃな踵なぞは/ちょうど鹿のようだ」(中野重治「あかるい娘ら」)


 本当の追求への道は長く険しい。若い小説家たちの一層の精進を庶幾する。