我戦う、ゆえに我あり――クライストを観る/読む(その2)



 「マルティン・ルターの介入で事態が大きく転回する」。大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(新潮文庫版では『美しいアナベル・リイ』と改題された)で、語り手の小説家がクライストの小説の概要を語る場面――、前回はそこまでで終わったのだけれど、その続きを小説家に語ってもらうと、「しかしその後、この前も話したけれど、サクソニヤとブランデンブルクの両選帝侯と、二陣営の貴族らの複雑な政治関係が表に出て、小説はじつにわかりにくくなる……映画として説明できるかどうか、心配なところなんだ」。
 小説家は『ミヒャエル・コールハースの運命』を映画化するためのシナリオを構想しているのだが、これは「アメリカ、ドイツ、中南米、アジアの製作チームがそれぞれの映画に作り、クライスト生誕二百年祭にまとめて上映する」という壮大な企画で、「アメリカ版は完成しているし、ドイツ版はエンツェンスベルガーを中心に、撮影に入っている。中南米版はメキシコで作る。さて、アジア版はいま経済的実力をつけてきている韓国が引き受けていたが、昨年の金芝河の投獄でダメになった」という。クライストは1777年の生れ。したがって、生誕二百年祭は1977年になるはずで、金芝河の投獄――これに抗議して大江や鶴見俊輔らがハンガーストライキをおこなった――の翌年、すなわち小説で語られつつあるのは1975年ということになる(現実を参照枠とするならば)。
 小説家は「自分の地方で維新前後に起った二度の百姓一揆に舞台を移して、時代劇映画のシナリオを書こうとしてる」と、この映画のヒロインになるはずの女優サクラさんに語る。一揆の指導者は、『万延元年のフットボール』以降、大江健三郎の〈谷間の村サーガ〉に繰り返し登場することになる「メイスケさん」。この「ミヒャエル・コールハース計画」とその顚末について語り始めると長くなるので急いで本題に戻らなければならないけれども、小説家とサクラさんとの対話のなかで感銘を受けた会話を一ヶ所だけ挙げておこう。 
 前回書いたように、マルティン・ルターコールハースに向けて「汝は逆徒にして正義の神の戦士にあらざるぞ」と布告を発する。続けてルターはいう。「しかして汝の行きつく果は今生にては車裂と絞首の刑、又彼の世にては悪行と瀆神にかかれる呪ひであるぞ」。小説家がルターのその布告を朗読すると、
 「私には思いがけなかったのだが、サクラさんはゆっくり考えて、
  ――それで、何が悪い、という気もいたしますけれど、といった。」


 さて、前回の終わり、そして小説家が「サクソニヤとブランデンブルクの両選帝侯と、二陣営の貴族らの複雑な政治関係」と述べたところに話をもどすと、サクソニア選帝侯と貴族らは侃々諤々の討議の結果、ルターの調停を受け入れて、三日以内にコールハースが武器を放棄するなら訴訟の再審理のためにドレスデンへ護送する、さらにサクソニアにおける暴行に加わったすべての者に大赦を下す、と各所に掲示した。コールハースはその提案を受け入れて武装を解除し、ドレスデンへと向かう。だがその途中、コールハースの名代を騙ったかつての下僕が徒党を組んで掠奪をはたらき、その男と気脈を通じているとの廉でコールハースは捕えられて死刑を宣告される。 
 そこへ登場したのがブランデンブルク選帝侯である。コールハースブランデンブルクの臣民である、とコールハースの身柄の引き渡しをドレスデンの内閣に要求する。わが臣民はわが法律によって裁く、従わない場合は国際法の侵害であると通告したのである(死刑宣告は差し戻される)。当時、ポーランドブランデンブルクの協力のもと、国境に軍勢を配備してサクソニアをおびやかしていたという状況もあって、サクソニアとしてはその要求を飲まざるをえない。サクソニア選帝侯は、せめてもとベルリンの高等法院(最高司法機関)にてコールハース武装侵入の責任を問うように神聖ローマ帝国皇帝に懇請した。
 コールハースは、ブランデンブルク選帝侯の騎兵の護衛のもと、此の度は高等法院のあるベルリンへと向かうことになった。その旅の途上、コールハースはサクソニア選帝侯と出会い、妻の葬儀の翌日、一人のジプシー女から占い札を預かった、と話す。それを聞いた選帝侯は突然蒼褪め、失神してしまう。急病からようやく恢復した選帝侯は、なんとしてもあの札を手に入れるよう侍従に申し付ける。その札には選帝侯の運命が記されてあったのだ。選帝侯は、占い札を手に入れるまではコールハースの身柄を確保せねばならぬ、と告訴を取り下げる旨の親書を皇帝に送るが、もはやこの事件はサクソニアのみならず神聖ローマ帝国全体の問題であるとして、皇帝はその懇願をにべもなく拒絶した。
 一方、ブランデンブルク選帝侯は、ウェンツェル公子を告訴するためドレスデンの法廷に弁護士を派遣した。かくして、コールハース(の事件)は同時にふたつの裁判にかかわることになる。ひとつはドレスデンで、ウェンツェル公子を被告として。もうひとつは、ベルリンでコールハースを被告として。
 高等法院はコールハースに秩序紊乱の廉で死刑を宣告する。刑場に着いたコールハースに、ドレスデンの判決が伝えられた。ブランデンブルク選帝侯はコールハースに語りかける。
 「コールハースよ、今日こそお前に償ひの与へられる日である。お前がトロンケンブルクで無法にも奪はれたもの、余がお前の主君としてお前に返す義務をもつもの、黒馬、頸巻、貨幣、下着類、そしてミュールベルクで仆れた下僕ヘルゼの治療代に至るまで、ここに一切をお前に返す。満足してくれるかね。」
 公子ウェンツェルが二年の懲役に処せられたとの判決文を読んだコールハースは、選帝侯の前に跪き、この世の最後の望みは満たされたと従容として絞首台に向かう。そして、群衆のなかで様子を窺っていたサクソニア選帝侯の前で立ち止まると、例の占い札を素早く飲み込んでしまった。選帝侯は墓を掘り返してコールハースから札を奪い取るつもりだったのである。またもや卒倒する選帝侯をしりえに、コールハースは断頭台で絶命する。


 前回、この映画を「ギリシャ悲劇を思わせる」と書いたが、それには、原作小説の大胆なアダプテーションが寄与している。原作ではコールハースには5人の子どもたちがいるが、映画では幼いひとり娘になっており、抗いがたい運命によって引き裂かれる父娘の情愛が、この悲劇をいっそう象徴の高みに押し上げている。ほとんど言葉を発しない少女が父を見つめるまなざし、娘を見つめ返す父のまなざし。娘を抱えあげて馬に乗せる、馬から娘を抱えおろす。そのアクションとリアクションの反復がこの映画の様式美をなしているといえるだろう。
 また、ジプシーの老女のエピソードも映画では割愛されている。原作小説を脚色する場合、これは脚本家にとってぜひとも使いたくなる挿話だが、全体のトーンからするとややもするとノイズになりかねないものだ。小説の訳者・吉田次郎が「この小説のきはだつて不自然な部分」と述べているように。
 この小説にはライン同盟に加盟したサクソニア王家への「憎悪と軽蔑」が反映している、という訳者の見立てについて前回ふれたが、それはこのエピソードに関してのことである。すなわち、「作者は選帝侯に「致命傷を与へる」ためにあのモティーフを考へ出した」と訳者はいうのだが、それはいささか皮相な見方だろう。「憎悪と軽蔑」は、選帝侯の道化じみた描き方(それはブランデンブルク選帝侯との対比によって際立つ)によって明らかであり、小説のなかの選帝侯はたしかにジプシーの予言によって「致命傷を与へ」られたかもしれないが、現実の選帝侯にとっては痛くも痒くもないからである。なお、映画では、サクソニア選帝侯は登場せず、王妃が代わりを務めている。


 さて、大江健三郎の小説で、小説家が谷間の森の一揆と重ね合わせようとしたミヒャエル・コールハースの物語は、果たして「一揆」の物語なのだろうか。たしかに、サクソニア王家に不満をもつ農民、市民たちを巻き込んで武装蜂起を行なったが、前回繰り返し書いたように、物語の本質はあくまでコールハースという一己の人間の「義」のための孤独な戦いにある。それゆえに、かれは肥え太って戻ってきた黒馬二頭と、わずかな金銭の補填、それに公子のたかだか二年の懲役という判決と引換えに欣然として死に赴くのである。これは「ハリウッド・リポーター」が評するような「リベンジの物語」ではないだろう。かりに「リベンジ」だとするなら、それは「法」にたいするリベンジなのである。
 この物語に「文学における法律制定」*1という視点から論評を加えているのがJ・ヒリス・ミラーである。ヒリス・ミラーはポール・ド・マン、ジェフリー・ハートマンとともに脱構築批評で知られるイェール学派の中心をなす批評家であり、この論攷はわたしに理解の行き届かないところがあるけれども、以下にその骨子を記しておこう。
 クライストの小説はどれも法にたいする強い関心が窺えるが、「ミヒャエル・コールハース」ほど法律の問題が支配している作品はない、とヒリス・ミラーはいう。冒頭、コールハースブランデンブルクからザクセン(サクソニア)へ行くように、これは「一つの司法権から別の司法権へと境界を越える」物語であり、同時に、「歴史から虚構作品へと絶えず渡ってもゆく」。物語はある現実の年代記に基づいているが、ジプシーの挿話に見られるように「別の領域」へと越境してゆくのである。
 物語は、「コールハースが公正と返報とを要求する精神を中心問題にしている」とヒリス・ミラーはいう。


 「彼は、自分が失ったものをそっくりそのまま返して欲しいと希う。彼は洗練された等価感覚の持ち主であり、差違の鑑定家なのである。というよりむしろ、彼は等価を全く受け入れようとしない。彼にとっては唯、同一であるとは、その同一そのものということである。彼は、自らの正義感の点で、厳密な字義拘泥者なのだ。彼は自分の馬に対して為されたことへの返報を、例えば金銭や別の馬で返してもらうことを望まない。彼は同じ馬を、離れていった時と全く同じ状態で、返して欲しいと希うのだ。」


 ありもしない通行証を要求され、担保に預けた二頭の黒馬は見るも無惨に傷つき痩せ衰えていた。その理不尽な仕打ちにコールハースは憤る。これが法律の問題ならば、損害賠償ということになるだろう。だが、かれにとって事はそうした次元の話ではない。あくまで原状に戻せ、というのがかれの要求であり、かれの「正義感」とは「誰かが行なうことの正義か不正かを彼自身で評価する際の周到な測定の秤」なのである。
 そういう意味において、コールハースは「外部と内部の、二重の司法権の下に生きている」。外部の司法権とは法律であり、内部の司法権とは「外部のいかなる法律とも異なった何か」である。それはヒリス・ミラーが引用しているように、カントの定言的命令「私の格率は普遍の法則になるべきだと私も意志することが出来る、というやり方以外ではいかなるやり方でも、私は決して行動すべきではない」に合致するような行動則にほかならない。
 コールハースは自らの格率にしたがって、「新しい法秩序の目覚ましい確立へと進んでゆく」。それは、自分が正義の戦いを挑んでいる公子ウェンツェルに助勢しないように、また、公子を自分に引き渡す義務をすべての住民が有する、「若し公子を引渡さざるに於ては、公子を見出すため塀の背後を捜す要なきまでに町を焼き払ふべし」といったように、「布告」「声明書」という形で繰り出される。法廷が正義を行なわないならば、「法律の名において正義が自分に行なわれるような新しい法律と新しい社会秩序を設定しても正当だ」とコールハースは考える。
 これは新たな政体を樹立しようとする「革命」だろうか。たしかに前回書いたように、我こそは大天使ミカエルの身替りなりと記した布告には、「我等が仮の幕府の所在地、リュッツェンの本城にて認む」の署名があった(ヒリス・ミラーの邦訳では「我ら暫定世界政府の所在地」)。クライスト(の小説の語り手)はこれを「病的で不具な妄想」と称し、ヒリス・ミラーは「特定の教区から普遍の場所へと急速に拡大してゆく狂った論理」と呼ぶ。
 ここにおいて、マルティン・ルターが介入する。かつてルターは「自分独自の正義」に基づき教会の権威に反抗し、新しい教会を確立した。「ルターの革命は成功だった。(略)にもかかわらず、彼はコールハースには、自分自身が行動したように行動する権利を厳しく拒むのである」。その一方でルターは、訴訟の再開とコールハース大赦をうながす書簡をサクソニア選帝候に送る。


 「武器を執つた臣民と交渉に応ずるといふことは如何なものかといふ懸念は、かやうな非常の場合には捨てなければならない。事実この者はその受けた待遇によつて国法の埒外に出されたと云つてよく、約言すれば、紛争を逃れるためには彼を王座に反抗する謀反人と見做すよりも国に侵入した外国の一勢力と見做すべきであり、又実際彼は他国人であるのだからさう見做される資格がいはばあるのである」


 ルターがコールハースを外国勢力と見なすべきであるというのは、ヒリス・ミラーによれば「コールハースに、自らを神の復讐を行なう正当化された使者だとは定義させたくない」からである。そのとおりだろう。コールハースがもし外国勢力であるならば、とわたしは夢想する。「暫定世界政府」を宣言した際に、ルターの調停による武装解除も恩赦も蹴飛ばして、サクソニア国境に駐留するポーランド軍と盟約をむすんでサクソニア王家を打倒すればどうだったか、と。人民革命政府の樹立。だが、その政体はおそらく早晩潰されるにちがいない。ポーランド王国神聖ローマ帝国によって。それは、その後の世界史の出来事に徴して明白である。
 「ルターとコールハースとの違いは何であろうか?」と、ヒリス・ミラーは問う。「一方は制度化され合法化され、他方は大抵の革命の試み同様、処刑か反徒の投獄に終るという、成功した革命と不成功に終った革命との違いにすぎないのだろうか?」と。
 コールハースは「新しい法律と新しい社会秩序」を打ち立てようとしたのではない。古い社会秩序にたいして古い法律を守れと訴えているのである。ルターもまた新しい宗教を創立したのではない。かれは腐敗した教会を改革し、伝統に基づくキリスト教に戻れと主張したのである。 
 「ここに、文学作品に描かれる政治行為としてであれ、文学作品そのものによって遂行される法律制定行為としてであれ、新しい法律を設定するという観念に内在する逆説がある」とヒリス・ミラーはいう。「その観念が作動するためには、前例に訴えなければならない。それは自らを公認することはできない」と。「政治行為」としてはそのとおりだろう。ルターの宗教改革のように。だが、後者の「文学作品そのものによって遂行される法律制定行為」とは何か。
 それは「文学作品はいかにして独創性に富み、これまで聞いたこともないものを作り出すばかりか普遍の法則として拡大してゆくようになるのかという問題」である。それが文学作品において「新しい法律を設定する」ということであるのだが、これもまた同様に前例に訴えなければならない。そして「過去から公認され、未来のために制度化されるや否や、それは、これまで聞いたことのない、独創に満ちた、既に立法化されたものにとっては異質の、小説ではもはやなくなる」。公認されたとたんに、前衛はすでに前衛ではないというパラドックス
「それは新しい法律を制定したりはしない。それは古い法律を確証することになる。クライストによって語られるコールハースの物語は、見事なまでに、この矛盾を例証してくれるのである。」


 ヒリス・ミラーの論点はまだほかにもあるが、もはや充分長くなったのでこのあたりでやめよう。最後に、映画『ミヒャエル・コールハースの戦い』の一場面について書いておきたい。
 文庫版『チリの地震』のなかの「聖ツェツィーリエ」(これはアナトール・フランスの「聖母の曲芸師」とともにわたしの愛する黄金伝説の一種ともいうべき奇譚)について、種村季弘は解説でこう述べている。


 「狂気の闇がすぐまぢかに触知されるような風景である。しかし同時に、どこまでも晴れ上がった青空が手でつかめるようにそこにある、この世ならぬ至福の体験。クライストではこの闇と至福の青空が、たえず同じ視界のなかに共存している。」


 まさにそうした画面が、映画のなかにあった。ベルリンに移送されたコールハースが闇につつまれた獄舎に幽閉されている。鐘の音が聞こえてくる。コールハースは鉄格子の嵌った窓に向かう。暗い獄舎にそこからだけ明るい陽射しが射し込み、緑の若葉がきらきらと陽に輝いている。目を閉じて、鐘の音に耳をすませるコールハース
 「ここでは誰もが祈りを捧げる。鐘が鳴れば一斉にひざまずく」
 故郷ブランデンブルクから付き従ってきた若い牧師にいう。「忘れていた。祈らないのはわれらだけだ」。牧師が訊く。「受け入れるのはつらいか」
 「確実とは恐ろしい。妻へ近づき、娘から遠ざかる日を数えている。死は怖くない。だが、日は、時間は、確実に忍び寄る」
 わたしはこの場面に「キルヒベルクの鐘」を思い出す。「鎮魂歌」と題されたマイヤーの詩を*2。従容として死におもむくコールハースの胸に去来したのは、あるいは一種の「安らぎ」であったのかもしれない。

臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

批評の地勢図 (叢書・ウニベルシタス)

批評の地勢図 (叢書・ウニベルシタス)

*1:『批評の地勢図』森田孟訳、法政大学出版局、1999

*2:id:qfwfq:20060423