新しき幕明き



 いまから六十年余の前、林達夫はこう書いた。


 「戦後五年にしてようやく我々の政治の化けの皮もはげかかって来たようであるが、例によってそれが正体をあらわしてからやっと幻滅を感じそれに食ってかかり始めた人々のあることは滑稽である。」


 林達夫といえば必ず引用される「声低く語れ」というミケランジェロの章句をエピグラフに掲げた「新しき幕明き」*1というエッセイの冒頭である。「我々の政治の化けの皮」を「○○党の化けの皮」とでもすれば、昨今でも通用するだろう。政権奪取後三年にして早くも(ようやく?)分裂しそうな某政党に、いまさら幻滅を感じる者などおそらくいまいが。
 林達夫は書いている。


 「政治くらい、人の善意を翻弄し、実践的勇気を悪用するものはない。真のデモクラシーとは、この政治のメカニズムから来る必然悪に対する人民の警戒と抑制とを意味するが、眉唾ものの政治的スローガンに手もなくころりと「だまされる」ところにどうでも人が頼らねばならぬ政治のおぞましい陥穽があるともいえよう。私は化けの皮をかぶっていない政治というものには、未だかつてお目にかかったことがない。」


 「政治不信」を云々するのは笑止の沙汰である。信頼するに足る政治などかつてこの世に存在したためしはない。林達夫は続けて書いている。「その限りだけでは『ウォール・ストリートの政治』だって、クレムリンの政治だってさして変わりはない。いずれも程度の差こそあれ羊の皮を着た狼なのである」と。
 八月十五日、「全面降伏」の報を聞いて「滂沱として涙をとどめ得なかった」と林は吐露する。あの洋学派の総帥とも目される林が敗戦に慟哭し、「心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった」と告白し、川端康成の「私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない」という言葉に「肺腑をつ」かれる。
 この文章をはじめて読んだ二十歳そこそこのわたしは一種異様な思いにとらわれたものだ。これではまるで日本浪漫派ではないか。国破れて山河あり。「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々を照らし、白い雲は静に浮かび、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ」(伊東静雄)。
 だが、いまではその「哀しみ」が、わたしにもいくぶんかはわかるような気がしないではない。もう空襲に逃げまどわなくてすむという開放感と、なにもかも終わってしまったという悲哀と。


 「雨もよひの夜のもやは濃くなつて、帽子のない私の頭の髪がしめつて来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸できなくて、飛行場の上を三十分も旋回してゐるとの放送だつた。かういふ夜は湿気で時計が狂ふからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしてゐた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいつぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言つてゐた。私は旋回してゐる飛行機の燈が見えるかと空を見あげたが見えなかつた。」


 この陰鬱な情景を「戦時下の、空襲警報前後の、悪夢のような時間の再現」である、と勝又浩は近著『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ』*2で解釈する。
 「引用文は、驚く人もあると思うが、川端康成『片腕』の中の一節、主人公が、娘が貸してくれた彼女の片腕をレインコートの下に隠して夜の街に出、自分のアパートまで帰る、その途中の情景である。」
 「片腕」は幻想的な小説として、あるいは怪談として、いくつものアンソロジーに収録されている名作である。だが、ここにも「川端康成における戦後文学」としての一種の刻印が捺されていると勝又はいう。
 そして、勝又は「片腕」を中野重治の小説「軍楽」と対比する。
 「軍楽」では、終戦の翌月、日比谷公園で行われた進駐軍の音楽隊によるセレモニー、一種の「慰霊祭」が描かれる。中野と等身大の主人公の「男」は初めてみる外国兵の「服装の清潔さと美しさ」に目を瞠り、かれらの演奏する音楽に「万力のような力」でつかまれるのを感じる。


 「頭の地肌がすっと冷えて、目ぶちに涙がたまってくるのが男にわかった。
  ……
 殺しあったもの、殺されあったものたち、ゆるせよ。殺され合うものを持たねばならなかった生き残ったものたち、ゆるせよ……はじめて血のなかから、あれだけの血をながして、ただそのことで曲のこの静かさが生まれたかのようであった。二度とそれはないであろう……諸国家・諸民族にかかわりなく、何ひとつ容赦せず、しかし非常にいたわりぶかく……」


 「男」は進駐軍の兵士に「君らは何でじっとしていたんだ。おれたちあすこまで来てたじゃないか」といわれたような気がする。「そう言われたら一言もないという感じが男のなかに出ていた。服装の清潔さと美しさとがそういっているように見えた」。すなわち、「なぜ反戦抵抗運動をしなかったのか、と迫っている、と『男』は聞き取っている」と勝又はいう。


 「そして、それに対してどんな言い訳も、身内はともかく、外に向かってはできないことだと、『男』は自分を責めている。
 だが、この時この瞬間、米軍による中野重治の占領は完全に成就したわけである。『一九四五年九月すえのある日』この日が、中野重治の戦後の思想、その出発点を決定していた。」


 さらにこう続ける。


 「このとき中野重治は、日比谷で出会った米兵から〈片腕〉を預かってしまったのではないだろうか。だから以後、それを上着の下に抱えて戦後という街を、日本の国を歩くことになって、人の知らない、持たなくてもよかったかもしれぬたくさんの幻想に突き動かされ、苦労しなければならなかったのだろう。戦後の『夢の中での日常』を生きたのは島尾敏雄だけではなかったのだ。ただ、見た『夢』の種類が違っただけなのだ。」


 「片腕」の主人公が借りた女の片腕とは何だったのか。あるいは、何の寓意なのか。
 丹尾安典は、川端康成の小説にみられる「肉体の各部――とりわけ腕――によせるフェティッシュな感覚の種子は、やがて『片腕』のような作品となって花をつけることであろう」と述べ、その淵源に川端自身の同性愛があったと示唆する*3
 「ふとほの暗いうちに目覚めて、温かい清野の腕をにぎった。私の左の腕の片面すべてに温みが清野の皮膚から流れてゐるのを感じた。清野はなにも知らぬ気に私の腕を抱いて眠った」(川端康成「少年」)
 この清野少年のイメージが「踊子」に、そして「伊豆の踊子終結部の「私」をマントで包んでくれる少年に投影されている、と川端の研究者たちはいう。
 フェティシズムはともあれ、〈片腕〉は川端が生涯こころのなかに慈しみ抱いて放さなかった何ものかであることは間違いないだろう。島尾敏雄中野重治とはちがった意味で、川端康成もまたその生涯を夢のなかで生きたのである。


 ところで、朝日新聞7月4日夕刊一面のトップにこんな見出しが大書されていた。「電子書籍/「新章」幕開け」。欧米の電子書籍の標準規格「EPUB」が日本語に対応するようになったとの記事。わたしが関心をもったのは電子書籍ではなく、この「幕開け」の文字。そうか、もはや「幕開け」がスタンダードなのね、と思っていたら、案の定、今日(7月8日)の朝刊TV欄でもNHK平清盛」が「源平合戦幕開け」となっていた。かつて久保忠夫先生は「今日正しく「幕明き」などといったら、何と無教養な奴と思われるだろう」と歎かれたが*4、「幕明き」はもはや新聞の校閲にもそっぽを向かれたかのようである。

「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ ─ 廃墟・占領・戦後文学

「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ ─ 廃墟・占領・戦後文学

*1:初出は「群像」1950年8月号。『林達夫著作集 5』平凡社、1971

*2:勝又浩『「鐘の鳴る丘」世代とアメリカ――廃墟・占領・戦後文学』白水社、2012

*3:丹尾安典『男色の景色――いはねばこそあれ』新潮社、2008

*4:id:qfwfq:20091108