ラセラスは、余りに幸福すぎたので……  悼詞・鶴見俊輔



 永井龍男に「朝霧」という短篇小説がある。“短篇の名手”と称される永井龍男の小説のなかでも代表的な一篇に数えられる名篇である(昭和24年の作)。
 語り手(名を「池」という)が学生時代の友人のうちを訪ね、そこで出会った友人の父親(X氏)と母親について、そして友人の結婚にまつわるささやかなエピソードを語る、といった内容。
 X氏は東京の郊外に住み、私鉄の電車を渋谷で省線(いまのJRですね)に乗り換え、市中の中学校へ通う教員だったが、三、四年前に辞職した。「判で捺したような教師生活」と形容されるように、きわめて律儀な、というより度を越して几帳面な性格であることが冒頭のエピソードで示される。X氏は朝、家を出るときに、「たぶん、今日の帰りは、五時……十七分くらいになりましょう」と老妻に告げる。
 X氏はうちを出ようとしたが、ふと思い直して「五時七分には帰る」と訂正する。そしてうちを出てしばらくすると取って返し、「やはり五時十七分に帰る」と言い直す。老妻も慣れたもので「はいよ」と応えて動じない。これは「毎日必ず繰り返される習慣」で、帰宅予定時間を変更するために「わざわざ渋谷駅から通告しに戻ったこともある」というから尋常ではない。語り手はこれをX氏のいくらか度を越した律儀な性格によるもので、「もし、X氏のこうした行為を、健康でないという人があるならば、多かれ少なかれ、われわれ勤人は一種の病気のようなものにかかっているのだと、答えることも出来るかと思う」という。
 だが必ずしもそうとばかりはいえないのは、語り手がX氏のうちを訪ね、老妻に息子の友人の池さんですよと紹介されて挨拶をかわし、しばらく経つと「失礼でございますが、貴下(あなた)様は、どなた様でしたか?」と鷹揚に問いかける場面がつづくからである。そして、話の接ぎ穂に話題にしたテニスについてX氏は「テニスはいい、こう、球を離した瞬間、はすにドライブを掛ける。あの時がいい」と手振り身振りつきでなにかに憑かれたように何度も何度も繰り返すのである。
 X氏は「口養生のひどくやかましい」律義者というばかりでなく、「極度に生に執着」し、健康法としてラジオ体操と入浴は欠かさなかった。風呂釜がこわれて入浴できなくなると、打ちひしがれて明るいうちから布団を敷いて寝てしまう始末だ。「生活の秩序が守られている限り、生命は保証されると、X氏は信じていたものに相違ない」と語り手はいう。だから友人つまりX氏の息子良英の結婚問題にも「理由なく諾否を遅延」するのだという。
 良英もまた父親がぼけてしまったのは「生への妄執」に原因があると考えている。「家庭に於ける奇妙な秩序も、嫁という他人を、家に入れたがらない恐怖心も、自己の余生を盲目的に保護しようとする、執着心に端を発している」と。良英はその妄執に「引導」を渡すために語り手と一計をめぐらし、「家出」というひと芝居を打つことにする。息子が置手紙をして姿を消した翌朝、語り手がX氏のうちを訪ねると、老妻がうろたえている。X氏はといえば、茶の間に端座して沈痛な面持ちで独白している。


 「ラセラスは、余りに幸福すぎたので、――不幸を求めることになりました」


 おろおろと取り乱している老妻におかまいなしにX氏は「ラセラスは」「ラセラスは」と繰り返すばかりだ。ついに堪忍袋の緒が切れた老妻は「お黙りなさい!」と一喝する。


 「ラセラスが、幸福で、それでどうしたんです! その毛唐人が、良英を連れ戻して呉れるとでも云うんですか。ただでさえもうろくしているのに、……ほんとにラセラスは悪い奴です!」


 このひと芝居が功を奏し、息子は無事に結婚することができた。戦争が「次第に辛く煮詰って」来るなか、X氏は心臓麻痺でぽっくりと亡くなった。息子が見つけたX氏の日記には、命日の一週間先の日付まで記されていた。
 「二月十一日 晴  最中二個甘し(つぶし餡)
  二月十二日 快晴 寒明けたれど寒より寒し。鯉こく、ライス・カレー。
  二月十三日 快晴 石ごろも三箇甘し 牛乳一合。配給ナシ――。」
 むろん、モナカや鯉こくなどが容易に口に入る御時勢ではない。語り手は、X氏の死がタイミングを逸したとはいえないと思う。やがて辺り一帯は焼け野原になってしまうのだから。このあとに終結部の一節がつづくのだが、それは書かないでおこう。 
 
              *


 さて、ある雨の昼下がり、ガード下の自転車置き場の地面にひとりの男が段ボールを敷いて端座している。男は背筋をぴしっと伸ばし股引を繕っている。そのみごとな運針に見とれていたら、若い女がかれに近寄ってきて写真を見せてなにか尋ねている。男は首を横に振る。彼女はその様子を眺めていた私のほうに近づき、「ホームレスの方たち」のあいだでこの男を見かけたことがないかと写真を見せて尋ねた。女の鮮やかなパウダーピンクのスーツから淡いバニラの香りが漂った。写真に写っている男は彼女の父親だという。私は写真の背景の観覧車に見覚えがあったが、そのことは告げずに首を横に振った。去ってゆく彼女の後ろ姿を見送っていたら、ふとある言葉が徒雲(あだぐも)のように浮んできた。「サリナスは……あまりに幸福すぎたので、不幸を求めることになりました」。はて、あれは誰の言葉だったのか。
 雨が止んで日も暮れかかった頃、私は酒場へと足を向ける。途中で、ちょっとした騒ぎに遭遇する。さつま揚げを二枚盗んだと中年男が小突かれている。股引を繕っていた男だった。酒場で顔馴染みと呑んでいたら昼間のパウダーピンクの女がやってきて男たちに写真を見せて問いかけている。「お見かけになりませんでしたか」。大方はドヤの男たちで愛想はいいが応えはそっけない。わたしはほろ酔い気分で思い出す。そうだ、あれはサリナスではなく、ラセラスだった、ラセラスはあまりに幸福すぎたので、不幸を求めることになりました。パウダーピンクの女は肩を落として出て行った。私はなにがなしほっとする。そして、やや気落ちをしながら、幸福すぎたので……を胸になぞる。
                         ――辺見庸『眼の探索』(角川文庫)より

              *


 「この短篇小説は、老年ともうろくを忠実にえがいたというだけでなく、その背景に、それととりくむ日本文化の力を示唆する」、そう書いたのは鶴見俊輔である。


 「「ラセラスは……」という短文がどこからとられたか。語り手は知らないし、おそらくX氏も知らないかもしれない。それは受験の譬えとして、予備校教師のX氏の記憶に入りこんだのかもしれないではないか。そういう誰の作の一部とも知れず、脈絡からまったく切りはなされた文学の切れっぱしが、われわれの日常生活で、また密林の戦場で、私たちを支える一つの力となることがある。それは文学を、全集のそろった大学の研究室で読むのとはちがう流儀があることを教える。」*1


 鶴見俊輔が「老いへの視野」という文章でこう書いたのは1980年だった(「思想の科学」80年12月号/『家の中の広場』編集工房ノア、1982年)。有吉佐和子が『恍惚の人』を発表したのが1972年、いずれにせよ、認知症という言葉がひろく知られるまでは四半世紀の時を経なければならない。X氏は、従来の性格にくわえて初期の認知障害の症状を呈していると思われる。それらは、この小説が書かれた当時は老人に不可避的におとずれる、ぼけ、耄碌、の症状と認識されていた。認知症は脳の器質的障害である。そう認識されて、原因の探究、対症療法、根本的治療の研究が行なわれている。そうした医学的知見が一般的に広まり、多くの人々に共有されることはいいことにちがいないが、その反面、社会からある種の寛容さが失われてきたような気がしないではない。「狂気」の例を持ち出すまでもなく、認知症患者がときに社会・家族から隔離される例もないではない。むずかしい問題が多々あることを承知の上でいえば、「お爺さんもこの頃ぼけてしまって」という言い方のなかには、だれもがいつかは通る道、といった老人にたいする柔らかなまなざしがあったように思う。少なくとも、いまの老年の多くが抱いているような、自分が認知症になるかもしれないという恐怖、はなかっただろう。
 1980年といえば、鶴見さんはまだ還暦もむかえていない。だがその頃から「老い」が主題として意識され始めたのだろう。その後の著作の多くが、回想、耄碌、をテーマとするようになる。耄碌をテーマとしながら、本人は九十歳を過ぎても耄碌することはなかった。百歳ぐらいまで生きるのだろう、とわたしは勝手に思っていた。耄碌もせずに。
 吉本隆明が亡くなったとき、一つの時代が終わった、とわたしは思わなかった。鶴見俊輔が健在だったからだ。鶴見さんがいなくなったいま、ほんとうに一つの時代が終わった、という感がする。鶴見俊輔の思想はだれかに引き継がれてゆくのかもしれない。だけど鶴見俊輔はもういない。


朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)

朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)

眼の探索 (角川文庫)

眼の探索 (角川文庫)

家の中の広場 (1982年)

家の中の広場 (1982年)

 

*1:むろん鶴見俊輔は知っていたはずだが、これはサミュエル・ジョンソンが書いた唯一の小説「アビシニアの王子ラセラスの物語」を典拠とする。『幸福の探求』の題で2011年に岩波文庫に入った。朱牟田夏雄訳。