戦争は懐かしい――玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』を読む



 戦後70年といわれて、いまの若い人はどのような感想をもつのだろうか。二十歳の若者にとって、昭和20年は生れる50年前になる。わたしは昭和26年、1951年の生れだから50年前といえば1901年。日露戦争の始まる3年前になる。ロシアは革命の前、帝政時代である。いまの若者にとって日本の敗戦とは、そういう遠い遠い歴史上の出来事なのだろう。
 わたしの幼少期にはまだ戦争のにおいがそこかしこに漂っていた。学校へ戦争絵葉書を持ってくる子供がいた。町では白衣を着た傷痍軍人アコーディオンを弾いて物乞いをしていた。そうした戦争のにおいはやがて急速に薄れていった。
 一兵卒として体験した戦争を生涯書き続けた小説家古山高麗雄がこういう言葉を残している。


 「もちろん、戦争は懐かしい。当然である。戦争経験は、私の過去の中の重いものであって、楽しくない追憶が多いが、自分の過去の重いものが、懐かしくないわけがない。」


 古山高麗雄は大正9(1920)年に生れ、昭和17年、二十二歳で入隊し、東南アジア、いわゆる南方戦線に送られた。大正5年生れのわたしの父は、日中戦争で中国戦線へ、そして太平洋戦争で南方へ出征し、九死に一生を得て帰国した。寡黙な人だったが、戦争の話になると重い口をひらいたという。懐かしかったのだろうと思う。わたしは父から戦争の話を聞いた覚えがない。
 一度父が上京した折にわたしのアパートに泊ったことがある。靖国神社に行きたいというので案内した。大鳥居の前で父と別れ、わたしは喫茶店かどこかで時間をつぶして戻ってくるのを待った。若かったわたしは靖国神社に足を踏み入れることを頑なに拒んでいたのである。いっしょに行けばよかったとずっと後年になってから思った。淡い悔いの気持が尾を引いた。
 戦争は懐かしい――。
 玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』(平凡社)のなかの、そのことばで父のことをおもった。


 古山高麗雄にとって戦争体験は『トニオ・クレーゲル』のいう「何か監獄の類」であったのだろう*1安岡章太郎ら「悪い仲間」とやっていた回覧誌に彼は短篇小説を寄せている。旧制高校に通う男が下宿先の奥さんに性的な妄想を抱くといった、当時の自らの境遇をカリカチュアライズした小説だったようだ。「三枚目の幸福」と題されたその小説は、それからおよそ30年後に発表される処女作(と自認する)「墓地で」と、どこか「根本」において相通ずるところがあると自身が語っているけれども、彼が小説家となるにはその間に「何か監獄の類」が必要だったにちがいない。トニオがリザヴェータに語ったことばをもじっていえば、「自分の一兵卒としての経験が書くものすべての根本主題になっているんです。だから大胆に言ってみればこうじゃありますまいか。小説家になるためには何か監獄みたいなものの事情に通じている必要がある」と。
 そして、さらにトニオのことばに従って敷衍するならば、古山を小説家ならしめたのはじつは「戦争体験」そのものではなく、戦争体験を通して得た「誠実で健全で尋常な人間」たりえないという自覚なのである。以前、大西巨人の『神聖喜劇』にふれて書いたように、詩人や芸術家になるにはある種の「獄中体験」のようなものが必要であり、さらにいえば彼をしてそういうところへ追いやったものが「作家精神の根底や源に密接な関係を持っている」のである。そして、表現者というものは「誠実で健全で尋常な人間」もしくはそうした人間たちの営む社会・人生につよく惹かれつつ、いっぽうでそれを唾棄するというアンビヴァレンスのなかに生きている、というのがトニオの(おそらくはトーマス・マンの)、そして東堂太郎の(おそらくは大西巨人の)抱懐するイデーなのである。
 古山もまた、応召して戦場へおもむく前、明晰な頭脳をもちながらあるいはそれゆえに、成績劣等で落第した三高を自ら退学し、東京に舞い戻ってフーテン生活をするといった「青春放浪の戦場」*2にあった。「誠実で健全で尋常な人間」であることを愧じる性行は、実際の戦場へ従軍する前に幼いながらもすでに身につけていたのである。
 古山は初めて書いた小説を振り返ったエッセイ「三枚目の幸福」でこう書いている。


 「いずれにしても戦争が、私から何かを奪い、何かを与えた事件であり環境であったからには、振り返ってみないではいられません。(略)それが戦争でなくてほかのものであっても同じことですが、私の場合、まず、なんといっても戦争ぐらい、ドジの自覚を決定的に自分に押しつけたものは、ほかにはないのではないかという思いがあったのです。
 その自覚は、人をペシミスティックにし、去勢します。そして小説とは、その去勢を恢復する作業かも知れないと考えたことがありますが、いずれにしても、御大層なものではありません。小説とは、小さな生きものたちのささやかな談話に過ぎない、しかしだから心なごむものになりうる。そういったことで“恢復”を考えているのです。」*3


 「ドジの自覚」とは、古山にいわせれば、「人はみな、何かによって、いつ、どこでドジを踏まされてしまうかわかったものではない」という、いわば人生訓のようなものである。ドジを踏むのは「三枚目」ばかりではない。「実人生には、美男や成功者や艶福者はいても、ドジを踏む要素は押しなべて誰にでもある」のである。古山がそう気づくのに戦争体験を含む30年という時間が必要だったといえば、ひとは呆れるだろうか。
 だがそれを柄谷行人のいう「自己欺瞞に対しては苛酷なほどに働くような自意識」であると言い換えれば、ことはそれほど簡単ではない。自分を「誠実で健全で尋常な人間」だなどと間違っても思ってはならない。その仮借のなさがはたらくのは「自分自身に対してだけであって、それは他者に対してはマザーシップとしてあらわれ、けっして勇ましい正義の告発というかたちをとらないのである」(柄谷行人「自己放棄のかたち」*4)。
 そうした「ドジの自覚」は「戦争を扱った小説」であろうと「市井の話を扱った小説」であろうと選ぶところはない。「人が小さな、ぶざまな生きものである」ことを、たった一つのことを、古山高麗雄は生涯をかけて歌い続けたのである。
 『戦争小説家 古山高麗雄伝』では、心臓に持病を抱えながら、生れ故郷の北朝鮮新義州を一目みるために苦心する、その鬼気迫る執念――短篇「七ヶ宿村」で老妻に「あなたは、死ぬまで、戦争や新義州から離れられないのね」といわせた――に打たれた。戦争は懐かしい。それは古山高麗雄にとっては生れ故郷と同義であったのかもしれない。



戦争小説家 古山高麗雄伝

戦争小説家 古山高麗雄伝

*1:id:qfwfq:20140614

*2:勝又浩「愛と鎮魂――未復員兵の戦後」、『プレオー8の夜明け 古山高麗雄作品選』講談社文芸文庫、2001

*3:新鋭作家叢書『古山高麗雄集』所収、河出書房新社、1972

*4:新鋭作家叢書『古山高麗雄集』解説