もし愛なくば――承前



 前回、大西巨人神聖喜劇』の「奇妙な間の狂言」について書いた折に『トニオ・クレーゲル』の引用文にいささか腑に落ちぬ点があった。「詩人になるためには、何か監獄の類に通暁している必要がある」というトニオの科白の「何か監獄の類」という比喩が何に由来するものなのか、わたしにいささか不分明だった。そこで、久しぶりに『トニオ・クレーゲル』を読んでみることにした。
 以前読んだのは中学生か高校生の時分だったろうと思う。北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(及び“どくとるマンボウ”シリーズ)は中学生わたしの愛読書だった。北杜夫ペンネームが、かれの愛読する『トニオ・クレーゲル』のトニオに由来する(北杜夫自身がどこかでそう書いていた)と知って興味を覚えたのだろう。したがってこのたびは、およそ半世紀ぶりの再読になるわけである。とはいうものの、中学(旧制)の「二年と三年の境目の春休み」にマンの小説を読み、『トニオ・クレーゲル』に衝撃を受けた(「私は、あるいは私の半面は、当の作者ないし作中人物の魂に血のつながりを認めた」)という東堂太郎(ないし、大西巨人)とは当然比べるべくもないが、少年わたしに『トニオ・クレーゲル』は高級すぎたにちがいない。ほとんど初読にひとしい。
 ちなみに、東堂は二十歳前後の頃、『トニオ・クレーゲル』の原書を入手する。「それにはエリッヒ・M・シモン筆の挿絵十六、七葉が入っていた」。その原書を購ったのは、東堂の美少女への憧憬に類比されるような場面が挿絵として描かれていたからである。その挿絵は、平野卿子訳『トーニオ・クレーガー 他一篇』(河出文庫)で見ることができる。


 なにか犯罪をおかし重禁錮をくらった銀行家が、監獄の中で小説を書くという自分の天分を自覚する、という挿話をトニオがリザヴェータに語る。
 「だから自分の囚人としての経験が書くものすべての根本主題になっているんです。だから大胆に言ってみればこうじゃありますまいか。詩人になるためには何か監獄みたいなものの事情に通じている必要がある」(高橋義孝訳、新潮文庫
 「何か監獄の類」とは比喩でなく、じっさいの監獄だった。トニオはつづける。
 「けれどもこういう疑いが起ってきますね、この男の獄中体験と、この男をそういうところへ追い込んだもの(2字傍点)と、このどちらがこの男の作家精神の根底や源に密接な関係を持っているか」
 トニオは、獄中での体験と、犯罪をおかすような境遇に銀行家を追いやったものと、そのいずれが「この男」をして小説家(もしくは詩人)ならしめたのか、と問うているのである。小説を書く銀行家は珍しいが、「犯罪なんかに無関係な、無きず(2字傍点)の手堅い銀行家でしかも小説を書くような男――そういう人間は絶対にいないのです」(16字傍点)」とトニオは言う。トニオの言う「囚人としての経験」とは「獄中体験」そのものではなく、銀行家をして犯罪をおかさしめたもの、即ち、犯罪なんかに大いに関係のある、無きずの手堅い銀行家とは対極にあるような、そうした何か、あえて言うなら健全ならざるものが「作家精神の根底や源に密接な関係を持っている」と言うのである。おそらく東堂太郎をして一己の「我流虚無主義者」ならしめたものも、そしておそらくは『精神の氷点』の主人公水村宏紀を捉えた観念もまたこの「囚人としての経験」と決して無関係ではないのだろう。
 トニオのリザヴェータにたいする長広舌には、こういう科白もあった。


 「人間的なものを演じたり、弄んだり、効果的に趣味ぶかく表現することができたり、また露ほどでも表現しようという気になるにはですね、われわれ自身が何か超人間的な、非人間的なものになっていなければならないし、人間的なものにたいして奇妙に疎遠な、超党派的関係に立っていなければならないんです。様式や形式や表現への才というものがすでに人間的なものにたいするこういう冷やかで小むずかしい関係、いやある人間的な貧困と荒廃を前提としています。(中略)誠実で健全で尋常な人間というものはけっしてものを書いたり演じたり作曲したりするもんじゃないということをそういう無邪気な人たち(トニオに讃美の手紙を寄越す読者)が万が一にも知ったならば、まあどんなに驚くだろうと考えると、顔が赤くなるのです」(同前)


 ものを書いたり演じたり作曲したり――総じて表現という行為は精神における「疎外」の一形態にちがいあるまい。「誠実で健全で尋常な人間」であるなら、表現という行為など不要であるだろう。もしくは、「誠実で健全で尋常な人間」であることに(それを希求しながら、反面そのことに)自足できない人間のみが表現という行為に(已むに已まれず)携わるのにちがいない。そうした精神の在り方がトニオのいう「囚人としての経験」なのだろう。表現(芸術)とは一種の禁断の木の実であり、それをいったん口にしてしまった人間は楽園(誠実で健全で尋常な人間たちの営む社会)を追放されるしかないのである。前回、トニオの言葉を援用しつつ東堂の語った「魅惑的な凡常性における人生」「習俗的であることの悦楽」とはそうした楽園の謂いである。


 若きトニオが愛するインゲ・ホルムとカドリーユを踊るはめになる場面(シュトルムの詩の一節「いねましものを、踊らむとや」を思い浮べる――この場面は小説の最後で印象的に反復される)。
 「彼は心の中を眺めた。心は憤懣と憧れとにあふれていた。なぜ、なぜ自分はこんなところにいるのだ。なぜ自分は自分の部屋の窓辺にすわって、シュトルムの『湖畔』を読みながら、クルミの老樹が物憂い音を立てて枝を鳴らしている薄暮の庭に時おり目をやっていないのだ。そここそ自分本来の居場所ではなかったか。ほかの人間は踊っているがいい、元気よく器用に熱中しているがいい。……」
 こうしたトニオの内面の反省的モノローグは、たとえば東堂太郎の次のような内面の独白に対応するといっていい。
 「私は、堀江控置部隊長の詰問を浴びながら、“こういうことに私が血眼になっても、それにどんな意味があるのか、あり得るのか。相手が、(「弛張」を)「チチョウ」と読め、と命じるなら、また上官上級者にはいつでも敬称を付けよ、と求めるのなら、そのとおりに私がしたら、よいではないか。要するにあれもこれも蝸牛角上の争いではないのか。私は、こんな所でこんなことを言ったり行なったりするのにふさわしい人種ではなく、そういう言行を好き好む人間でもない。……」


 小説の最後、トニオがリザヴェータに送る手紙は、月並みな言い方だがやはり感動的というしかない。


 「私は二つの世界(芸術家と俗人と)のあいだに立っています。そのどちらにも安住の地をえません。(中略)俗人どもは愚かです。しかし私を粘液質で憧れがないときめつけるあなた方、美の崇拝者たちには次のようなことを考えていただきたいと思うのです。世の中には、平凡なもののもたらすもろもろの快楽への憧れに勝って、甘美で感じ甲斐のある、いかなる憧れもありえぬ、と思われるほどに、それほどに深刻な、それほどに根源的で宿命的な芸術家気質があるということを。
 私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、「人間」を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。――けれども羨みはしません。なぜならもし何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの愛情から流れ出てくるのです。この愛情は「たとい、わがもろもろの国人の言葉および御使の言葉を語るとも、もし愛なくば、鳴る鐘、響く鐃鈸(にょうはち、シンバルのような鳴り物)の如し」(「コリント前書」13.1)と記されてある、あの愛情と同じものなのだと言いたいくらいです」