憧憬と軽蔑――「絶望の花」としての芸術



 頃日、大西巨人神聖喜劇』を久方ぶりに再読している。部分的な再読は折にふれ何度かおこなったが、全巻の通読はなにしろ数十年ぶりのことである。再読して新たに気づくことも多々あり、きわめて有益かつ充実した読書体験のいまも直中にある。このたび興を覚えたことの一斑をここに心覚えにしるしておきたい。
 第三巻第六部「迷宮の章」の第二「奇妙な間(あい)の狂言」。周知のようにこの表題はユージン・オニールの戯曲Strange Interludeから取られているが、オニールの戯曲の内容と直接の関連はない。幕間の小さな挿話として、主人公東堂太郎の中学生時分のある美少女への「片思い」やら読書体験(江馬細香、明石海人、チェーホフトーマス・マンなど)やらが語られる。それとして独立に読んで見事な文学論でもある。
 東堂太郎から『田能村竹田全集』を借りた生源寺がそれを返すさいに江馬細香について言及したことからいつものように東堂の記憶の収蔵庫が開かれ、文藝作品のあれこれが奔流のごとく溢れ出す。
 まずは細香晩年の詩の一首。


 一誤無家奉舅姑   一タビ誤ッテ家ニ舅姑(キウコ)ヲ奉ゼズ
 徒耽文墨混江湖   徒(イタヅラ)ニ文墨ニ耽ッテ江湖ニ混ル
 却慚千里来章上    却ッテ慚(ハ)ヅ千里来章ノ上
 見説文場女丈夫   見ルナラク文場ノ女丈夫ナリト


 東堂はこの詩を次のように訳す。
 「私は、若い日、結婚のことで、かりそめの失敗をして、とうとう未婚のまま、むなしく詩文書画の道に熱中して俗世を渡ってきたが、今日、遠方より到来せる詩篇の中に『(細香は実に)文壇の女丈夫(である。)』などということが(褒詞として)書かれているのを見ると、いっそほんとに恥ずかしい」(「江湖ニ混ル」は、あるいは隠遁・隠棲を意味するかもしれぬ、と注釈がある)。
 江馬細香の詩集『湘夢遺稿』巻末に以下の記述がある。
 「女子、人ト為リ篤実温雅ニシテ卓識アリ、父ニ事(ツカ)ヘテ孝、故(ユヱ)有リテ笄(ケイ)セズ」
 「笄」は「こうがい」、女性が髪を掻き揚げるのに用いる櫛のような用具で、時代劇映画などで御かみさんや粋なあねさんが髷に挿しているあれのこと。「私は、「故有リテ笄セズ」を「故有リテ結髪セズ」ないし「故有リテ嫁(カ)セズ」と同義に解したのであった」と東堂が述懐するとおり、「笄ス」は結髪=嫁ぐと同義である。細香は故あって嫁がなかった(「頼山陽との縁談上蹉跌に思い至るにちがいない」と東堂はいう)。そのことと「徒ニ文墨ニ耽ッテ江湖ニ混ル」(むなしく詩文書画の道に熱中して俗世を渡ってきた)とから、東堂はトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』と明石海人の短歌一首を思い起す。
 『トニオ・クレーゲル』は前述の「中学生時分のある美少女への「片思い」」と関連するのだが、それはさておき、ここではトニオの(延いてはトーマス・マンの)芸術観・芸術家観に東堂が(延いては大西巨人が、でもあろうか)強く影響された(「私の肺腑を衝いた」)ことを以下に掻い摘んで述べる。
 『トニオ・クレーゲル』から幾つかの段落がドイツ語原文とその邦訳(東堂延いては大西による)とによって引用されるのだが、ここでは中の一つを邦訳のみで以下に掲げる。


 「いや、恒久的な対照物として精神と芸術とに対応するごとき『人生』、――それは、残虐な偉大や凶暴な美やの影像としてではなしに、すなわち異常な何物かとしてではなしに、われわれ異常者(芸術家)の眼中に顕現しているのです。つまり、尋常な物・方正な物ならびに可憐な物こそが、われわれ(芸術家)の憧憬の世界なのであり、魅惑的な凡常性における人生なのです。老獪な物・奇矯な物ならびに悪魔的な物にとことんまで心底から熱中する人、真率な物・質朴な物ならびに溌剌たる物にたいする憧憬を知らぬ人、そしてまた多少の友愛・献身・親密および人間的幸福にたいする憧憬を知らぬ人、約言すれば、習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬を知らぬ人、――そんな人は、まだなかなか芸術家であることはできません。」


 いかにも大西巨人らしい文体によるみごとな翻訳である。ともあれ、「真正の芸術家」は芸術を「身過ぎ世過ぎの稼業」にできないのであって、かつまた、「「習俗的であること」が(先天的・宿業的に)できない」のであり、しかもまた、以下が肝腎なところであるが「習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬」と「習俗的であること(の悦楽)にたいする(一抹の)軽蔑」とを「(先天的・宿業的に)ひとしく抱懐せざるを得ない」のである、と(東堂は)言う。
 きわめて荒っぽく言えば、芸術家は暮しをたてるために自らの芸術を用いることはできず、世間一般のような生活はなしえないのだが、にもかかわらず(あるいはそれゆえに)、そうした世間一般の生活にあこがれると同時にそれをどこか軽く見るものである。こうしたロマン主義的芸術観・芸術家観の現代的意義については(とりあえず)さておくとして、『トニオ・クレーゲル』と同時に想起した明石海人にも如上と同様の芸術観・芸術家観が妥当すると東堂はいう。
 明石海人の「癩は君に幸せりと人の云ふに」と詞書のある歌、


 病む歌のいくつはありとも世の常の父親にこそ終るべかりしか


 ハンセン病と闘いながら三十七歳でこの世を去った明石海人が療養中に詠んだ短歌は、死の直前に歌集『白描』として出版され大きな反響を呼んだ。上掲「病む歌の」は『白描』刊行以後に詠んだ歌の一首。明石海人は二十五歳でハンセン病を発症し入院、いったん退院して療養中に次女の急逝に逢う。その頃、妻の離別問題に悩む。それらの身辺問題を詠んだ歌数首を引用したのち東堂は、「世の常の父親にこそ終るべかりしか」の歌とそうした身辺問題との関わりを「毫も否定しない」けれども、この歌の含蓄は「むしろ(いっそう本体的には)」芸術家の「習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬」にあるという。
 要するに、いくら称賛を浴びたとしても、そうした栄光よりも世間一般の父親であることの方がどれほど幸せなことか――、そう思いながらも世間一般の父親であることは(先天的・宿業的に)できず、また、世間一般の父親であることの幸福など取るに足りぬことだという思いもなくはない。芸術家というのはつくづくやっかいなものだなと思わないでもない。
 トニオ・クレーゲルの「詩人になるためには、何か監獄の類に通暁している必要がある」という表白から、「何か監獄の類」を東堂は数え上げる。「早発性痴呆」「癲癇」「貧窮」「孤立」そして「「耐えるべき「長命」」。江馬細香にとってそれは「故有リテ笄セズ」であり、明石海人にとってそれはハンセン病でなければならない。東堂は言う。


 「ただ私は信じることができるのであるが、トニオ・クレーゲルないしトォマス・マンが言う「何か監獄の類」は、「生活苦および脳病もしくは奔馬結核による夭折(自殺もしくは病死)その他」として透谷あるいは一葉の上に発現したのであり、また「『世の常の父親』であることからの癩病による隔絶その他」として海人の上に発現したのである。」


 明石海人が療養した長島愛生園の医師であった小川正子が著した手記『小島の春』は大きな反響を呼び、豊田四郎の演出で映画にもなった。木下杢太郎(太田正雄)の映画『小島の春』評が東堂の脳裡に浮かぶ。杢太郎は、「癩」を不治の病とあきらめてはならない、だが、にもかかわらず、患者や医師のあいだに「感傷主義が溢れ漲っている」という。「明石海人の歌は絶望の花である。北条民雄の作は怨恨の焔である、而して『小島の春』及び其動画は此感傷主義が世に貽(おく)った最上の芸術である」と。
 この杢太郎の批評はみごとなものである。杢太郎は「癩根絶の最上策は其化学的治療にある」と断言し、患者・医師のセンチメンタリズムをともども批判し、にもかかわらず、明石海人の歌と豊田四郎の映画の芸術性を称賛する。聊か美文に傾きすぎる嫌いはあるけれども、情理を尽くした批評・名文である。
 『明石海人歌集』(岩波文庫、2012年)を編纂した民俗学者・村井紀は巻末の解説「明石海人の“闘争”」において太田正雄(杢太郎)の「癩医学から行政、患者自身に及んでいる感傷主義」に言及し、「この太田の文章を知ったのは大西巨人神聖喜劇』であったこと、ここで私が現行『ハンセン病文学全集』(全十巻、皓星社)とは異なり、“ハンセン病文学”を患者の文学と限定しないのは、この太田の批判を参考にしており、さらに歴史的民俗的な説話文学(『小栗判官・照手姫』など)を視野に収める必要があるからである」と注記している。大西巨人に「ハンセン病問題」その他のハンセン病に関わる論攷がある(『大西巨人文選2 途上』『大西巨人文藝論叢上巻 俗情との結託』)。
 東堂はまた石川啄木の詩、夏目漱石漢詩なども挙げて仔細に論じるのであるが、聊か長くなりすぎた。ここでは啄木について単簡にふれるにとどめる。
 啄木に「家」という詩がある。
 「場所は鉄道に遠からぬ、/心おきなく故郷の村のはずれに選びてむ。/西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、/高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても/広き階段とバルコンと明るき書斎……/げにさなり、すわり心地のよき椅子も。」
 一読、小坂明子の「あなた」(「もしも私が家を建てたなら、小さな家を建てたでしょう。大きな窓と小さなドアと、部屋には古い暖炉があるのよ」)を思わせるたわいのない詩のように思われなくもない。だがこの詩から「「炉辺の幸福」にたいする啄木の額面どおりに単純無邪気な(または「小市民的」な)願望をひとえに読み取るならば、それはほとほとあさはかな行ないであろう」と東堂はいう。ここにも、「貧困および肺結核による早世」という「何か監獄の類」に等しい宿痾を抱えた芸術家の「習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬」を汲み上げるのである、と。
 先にわたしは「こうしたロマン主義的芸術観・芸術家観の現代的意義については(とりあえず)さておく」と書いた。芸術家とはある種の聖痕を(運命的に)刻印された選ばれた存在である、といった命題をわたしはただちに(あるいは、必ずしも)真であると断言しない。だが、芸術家を「天才」に置き換えれば、それはほとほと肯綮にあたっている(もしくは剴切な)命題であるとわたしは信じる。東堂太郎の(延いては大西巨人の)驥尾に附してそうした天才・芸術家のひとりをわたしはただちに思い浮かべることができる。かれは江馬細香のごとくついに未婚のまま終生「習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬」をその作物に繰り返し描き続けた。かれがなぜ飽きもせず同工の作品を作り続けるのか、同時代の批評家のほとんどがその真意をはかりかねた。かれの脳裡を占めていたのは「尋常な物・方正な物ならびに可憐な物こそが、われわれ(芸術家)の憧憬の世界なのであり、魅惑的な凡常性における人生なのです」というトニオ・クレーゲルの言葉(と等しい観念)であったであろうことを、わたしはいま隈なく信じることができる。
 「真正の芸術家」であるかれ、すなわち小津安二郎が明石海人のように「世の常の父親にこそ終るべかりしか」といった感懐に一瞬にせよ捕らわれたか否か、あるいは、「習俗的であること(の悦楽)にたいする(一抹の)軽蔑」を「(先天的・宿業的に)ひとしく抱懐せざるを得」なかったか否か、はわたしの問うところではない。