ある年齢綺譚



 前回、わたしは次のように書いた。「大西巨人が亡くなった。3月12日、享年97」。これは朝日新聞3月13日朝刊の訃報に拠るもので、大西巨人の生年は従来1919(大正8)年8月20日とされていた*1。そうであれば享年は94のはずである。多くの人がこの事実の齟齬に気づいたようで、大西の「年齢詐称」を言い立てるブログも目にした。ウィキペディアには早くも以下のような注釈が附されている。


 「生前の文献(1984年刊行の講談社版『日本近代文学大事典』。この項目の執筆者は小笠原克)には1919年生まれと書いてあるが、2014年の訃報では各紙〈97歳〉と報じた。なお、これは息子の大西赤人によれば、戸籍上正確な生年月日は「1916年8月20日」で、「1919年」は誤記が定着してしまったものであり、本人も特に訂正しなかったものだという」


 一読してなるほどそうかと一先ずはうべなったが、いささか納得しがたい思いが残った。かりに「誤記」(だが誰が、何に記したものか)だとすれば、なぜそれを訂正せずにそのまま放置したのか。それはなにしろ大西巨人には相応しくない。わたしが四十数年間関心を持ち続けてきた小説家は「ディテールにあくまでこだわる偏執的な目」を持つ人物である。これはどうしたことか。
 塚本邦雄もながらく戸籍とちがった生年が流布していたが、これは塚本の短歌誌へのデビューの際に編集長の中井英夫が意図的にたがえたもので、本人も訂正せず定着したという説がある。塚本邦雄の場合は実年齢より二歳若く「公称」していたわけだが、だからといって四十数年間関心を持ち続けてきた歌人にたいするわたしのイメージに齟齬をきたすことはなかった。なぜなら歌人塚本邦雄は実人生を捨象したところに存在する仮構の存在にほかならず、塚本の歌に登場する「私」は現実の塚本とはなんの関わりもない仮構の「私」であるからだ。であってみれば、歌人塚本邦雄にとって実人生における戸籍など関心の埒外であったにちがいない。


 さて、では大西巨人の場合はどうか。とつおいつ考えているうちに、そういえば、と、あることに思いいたった。大西巨人にまさに生年の齟齬を主題とした小説があったはずだ、と。書架をさがすとそれはすぐに見つかった。タイトルは「ある生年奇聞」、『二十一世紀前夜祭』のなかの一篇である。二十頁ほどの短篇だが、なかなかに入り組んだ内容なのでかいつまんで概要のみをしるす。
 冒頭に《ある小説家の三夜連続講演「年齢雑話」(録音より採取)抜萃》とあり、以下、物語はその小説家の語りで終始する。 
 語り手は、戸籍上の生年月日が実際の生年月日より早いという「希有の事例」について具体例を挙げて詳述する。「大岩則雄」という人物がその「希有の事例」の当事者で、当人も戸籍上の年齢(1920年11月20日生まれ)を信じて成長したが、実際は戸籍面よりも約一年三カ月後、すなわち1922年3月8日に生まれた、と知ったのは敗戦後三年目のことであった。則雄はそれを自分の臍の緒に附された墨書によって知り、その謎を追究する。そして自分の父母が実の両親でなく、父の妹が実母であったという蓋然性につきあたる。
 すなわち、「大岩則雄」として村役場に出生届がなされた子が、なんらかの事情により早逝し、その後、父の妹の生んだ子が(出生届がなされず、「大岩則雄」の死亡届もなされなかった)身代わりに則雄として育てられた、と推理する。
 則雄は戸籍にしたがい実際の年齢よりも早く就学することになったが、「則雄が精神的(頭脳的)にたいそう早熟な人間だったことが、この「希有の事例」を順調に成り立たせた」と語り手は述べて講演を終える。


 この小説を再読して、わたしはある仮説へのつよい誘惑にかられずにいられなかった。すなわち、大西巨人の1919年生まれは実際の生年であって、戸籍の1916年が間違っているという仮説に。戸籍がどうあろうと実際の・正しい生年を自分として主張する、これは大西巨人にたいするわたしのイメージになにしろ合致する。「精神的(頭脳的)にたいそう早熟な人間だったこと」も、またさらにいえば、「大岩則雄(おおいわ・のりお)」という名が「大西巨人(おおにし・のりと)」のもじりと思われることなども、わたしの仮説を補強しているかのようである。
 むろん、「ある生年奇聞」は小説であって、ここに描かれたような事情(実母が異なっていたやら、死亡した幼児の身代わりとなったやら)が大西巨人のうえにも同様に介在したとわたしは信じない。だが事情はどうあれ、「ある人の戸籍上生年月日が実際上生年月日にずいぶん先立っている」という「希有の事例」がほかならぬ自分の身の上に生じているという「事実」を「ワーク・オヴ・フィクション」として提示したのがこの小説ではあるまいか――これはわたしにたいそう蓋然性の高い仮説のように思われる。


 ところで、前回の書評文でふれたとおり、「ある生年奇聞」は長篇小説『三位一体の神話』に「年齢奇譚」として(固有名詞を変更して)組み込まれている。
 ここで興味深いのは「固有名詞の変更」である。ある小説家の講演「年齢雑話」が、『三位一体の神話』では主人公である尾瀬路迂の談話「年齢雑談」に変更せられ、「大岩則雄」は「ヨシオカノリスケ」に変更せられている(その他の人名地名もまた同断)。そしてこの「ヨシオカノリスケ」は、『三位一体の神話』のもうひとりの主人公・葦阿胡右(いくまひさあき)によって、良丘典祐=葦阿胡右と同定される。つまり、葦阿胡右は「ヨシオカノリスケ」とも読みうる、というわけである。
 ここにおいて独立した短篇小説「ある生年奇聞」は『三位一体の神話』中の一挿話として組み込まれることによってその意味合いが大きく変化したかのようである。
 巷間、尾瀬路迂(おせみちゆき/オセロウ)と葦阿胡右(いくまひさあき/イアーゴウ)がそれぞれ誰に擬せられているかは周知の事実である(むろんそうした詮索・推理の妥当性を作者大西巨人は決して肯いはしないけれども)。
 だが、「大岩則雄」を「大西巨人」と読み、また、「良丘典祐」を「葦阿胡右」すなわち「井上光晴」と読む、それだけで「ある生年奇聞」という小説の意味合いが大きく変化する、それは小説のありうべき読み方といえるだろうか。ここにはなかなかに一筋縄で行かぬ問題がひそんでいる。


【追記/3月22日】
 大西巨人は小説中登場人物「大岩則雄」と同じく戸籍上の生年月日、1916年8月20日を信じて成長したが、ある時、実際は戸籍面よりも約三年後、すなわち1919年8月20日に生まれた、と知った。それ以降、大西として1919年生まれを自称することにした。講談社版『日本近代文学大事典』を執筆するために小笠原克が大西巨人の戸籍をたしかめると(『日本近代文学大事典』の刊行は1984年であるから、1980年頃のことか)生年は1916年となっていた。小笠原が不審に思い大西に尋ねると(もしくは小笠原は大西の自称1919年生まれを知らず著者の校閲を仰ぐと)、大西は、1919年生まれであること、生年と就学年との間に齟齬が生じるがいずれも「事実」であるので如何ともしがたい旨を主張した。大西は小笠原とのやりとりから一つの着想を得、1989年、「ある生年奇聞」を執筆・発表した。以上はわたしの「妄想」である。
 『日本近代文学大事典』以前に刊行された人名事典の類をわたしは参看していない。大西の著書、たとえば『運命の賭け』(1985年刊)『遼東の豕』(1986年刊)の奥付に記載された著者略歴には「一九一九年福岡市生まれ」と記載されており、それ以前に刊行された著書、たとえば『戦争と性と革命』(1969年刊)『巨人批評集』(1975年刊)の奥付に記載された著者略歴に生年の記載はない。
 なお、注にしるした1918年生年説は以下のサイトによる。事の当否はわたしに不明である。  
 http://d.hatena.ne.jp/YokoiMoppo/20121231/1356957744
 
 同サイトの「大西巨人の出生年をめぐって」もこの問題にかんして甚だ有益である(本日閲覧)。
 http://d.hatena.ne.jp/YokoiMoppo/20130224/1361696829

 近刊予定の大西巨人評論集『日本人論争』(左右社)収載の年譜(齋藤秀昭氏・編)が、「大西巨人の出生年」をめぐる疑問の解明に寄与することをわたしとして大いに庶幾する。


二十一世紀前夜祭

二十一世紀前夜祭

三位一体の神話(上) (光文社文庫)

三位一体の神話(上) (光文社文庫)

*1:1918年が生年であるという説もある。