「方言」を訳すのはむつかしい



 さて、ロレンスについてもう少し書いてみよう。
 『チャタレー夫人の恋人』が光文社古典新訳文庫から出た。訳者は木村政則。ところどころ拾い読みをした限りでは、読みやすい、よい訳だと思う。ただし、原文に忠実に、正確に訳されたものではない。訳者はあとがきで、「翻訳するにあたっては、従来のロレンス像や作品評は気にせず、自分の印象に従おうと決めた」と書いている。「つまり、速くて荒い文章で書かれた恋愛小説として訳す。ただ、ここで問題が生じる。荒い文章を速いリズムに乗せていくと、肝心の物語がぼやけてしまうのだ。ここが翻訳の分かれ道だろう。私は物語のほうを重視した」。原文の息づかいよりも物語の面白さを伝えたいということだろう。その是非は読者の好みにゆだねられるといっていい。
 『チャタレー』の翻訳といえば、何はともあれ伊藤整である。周知のように、伊藤整による完訳版は裁判の末、猥褻文書とされ、ホットパーツ(性描写)を削除した改訂版が再刊されることとなった。読者はながらく削除版を読まされることになったわけだが(1973年に羽矢謙一による完訳がひっそりと刊行されたが、話題にならなかった)、半世紀近く後に子息・伊藤礼の補訳による完訳版が新潮文庫から出版された(1996年)。この翻訳はホットパーツの復元にとどまらず、訳文を全面的に刷新し、原文に可能な限り忠実に訳されたものである。その後、永峰勝男訳(1999年・彩流社、未見)、武藤浩史訳(2004年・ちくま文庫)が刊行され、このたびの木村政則訳は10年ぶりの新訳となる。
 新訳が出ると、まず読み比べてみる箇所がある。それは、ホットパーツではなく、いわゆる「方言」である(チャタレーに限らず、フォークナーなどの場合も同じ)。訳者が頭を悩ますのは、まず「方言」をどう処理するかだろう。木村政則は訳者あとがきで次のように書いている。


 「個人的な嗜好を告白すれば、方言は方言らしく訳したい。理屈としては、日本のどこかの方言を当てはめることになる。昔であれば東北の方言(らしきもの)となるのだろう。たしかに舞台は中部――イギリス人の感覚なら「北部」――だから、地理的には合う。とはいえ、まったくなじみのない方言を自在に操れるわけがない。ならば、自分がふだん使っている「横浜弁」にしたらどうか。いや、それも無理である。コニーの尻を撫でまわすメラーズに、「おまえ、いいケツしてんじゃん」とは言わせられない。」


 というわけで、その箇所は結局、以下のような訳となった。


 「「いい尻してんなあ」かすれたような声で土地の言葉を発し、いとおしむように言った。「君の尻はたまんねえ。とびっきりの尻だ。これぞ女さ。男みてえなかっちかちの尻とはわけが違う。ほんとに丸っこくて柔らかい。男にはこたえられない。これなら地球だってささえられる」」


 やや野卑な言葉遣いだが、ほぼニュートラルな訳文である。伊藤整伊藤礼訳では「おめえ、いいけつしてるなあ」で、そのあとの台詞も木村訳と同様、野卑だがほぼニュートラルな訳文。この「尻・けつ」は原文ではtail、しっぽですね。’Tha’s got such a nice tail on thee’ テールは俗語として「尻」を意味するが、「女・性交」の卑語でもある、と辞書にある。メラーズはtailといい、さらに、the nicest, nicest woman’s arse と言い換えている。arseは尻のスラング(assholeはarseholeとも綴られる)。
 画期的なのが、ちくま文庫武藤浩史訳である。


 「《ほんによかケツしとるたいね》と愛撫するような喉声のなまりで男が言った。《世界で一番のよかケツたい。この世にある最高の最高のおなごのケツたい! すみからすみまでおなごばい、ぜったいのおなごばい。男になった方がよかごたるある(ママ)蕾の小ケツのおなごとは違うばい! 男が肚から夢中になる、柔らかくて傾きよった本物のケツばい。ほんに世界ば支えらるるケツばいね》」


 御覧のように木村訳がシリごみした「横浜弁」ならぬ「九州弁」を臆せず使って新味を出している。訳者は巻末の解説で「この翻訳では、できるだけ訳文のリズムに気をつけて「ノリ」の良さを伝えるようにした」として、「英中部方言の訳出に際しては、『チャタレー』同様炭鉱に縁が深い九州地方の方言らしきものを、五木寛之氏の『青春の門』などを参照して、作り出した」と書いている。まあ、これも読者の好みの問題かもしれないが、「おまえば好いちょるたい」と連呼されると、メラーズというより信介しゃんが頭に浮かんで、わたしにはいささか具合が悪い。たしかに「ノリ」はいいのだけれど、コニーがいまどきのギャルっぽくて、なんだかなあと思わないでもない。総体に訳文は粗く、「人類発明以来、こんなに男と女が好きあっている時代はないよ」(第6章冒頭)なんて訳文にげっそりする。木村訳は以下のごとし。「人類が誕生して以来、いま以上に男女が本気で惹かれあった時代があるでしょうか」。
 「方言」を訳すのはむつかしい。木村政則が書いているように、フォークナーの南部なまりなどはたいてい「東北の方言(らしきもの)」に変換されて、どれもこれも「おらは死んじまっただ」になったものだ。これぞ、と膝を打つようなものにほとんど出遭ったことがないが、ひとつ例外的に感心したものがある。前回もすこしふれたが、井上義夫訳ロレンスの短篇「ストライキ手当」の関西弁訳である。


 《「サム・クーツ!」出納係が叫んだ。
 「兄ちゃん、ちゃんと数えなよ」群集の一人が嬉しそうに叫んだ。
 背筋をぴんと伸ばしたクーツ氏は、実は能無しの役立たずだった。どぎまぎして自分の貰った一二シリングを見つめた。
 「あと二シリングや。あいつには月曜の夜に双子ができたんや。サム、貰っときいな。自分で稼いだんや、遠慮などせんと。なあ旦那、双子の分を二シリングやりいな」あたりにいた男たちが喚き立てた。》


 関西弁のやわらかな響きが世話好きの男の人柄をうまく伝えているような気がするのだが、どうだろう。それにつづく箇所を読んで、わたしは膝を打った。


 《サム・クーツは、きまり悪そうに笑って立っていた。
 「事前に通知してくれんとな、サム」出納係が大様に(ママ)言った。「来週はちゃんとしてやるから」
 「あかん、あかん、とんでもハップンや。着払いって言うやろ。現物はもう届いてるんや」》


 獅子文六の小説『自由学校』に使われて流行語となったとされる。いま使うと「おやじギャグ」どころか、若い子に不審な顔をされるのが落ちだろう。でも、いいなあ、とんでもハップン。


チャタレー夫人の恋人 (光文社古典新訳文庫)

チャタレー夫人の恋人 (光文社古典新訳文庫)

ロレンス短篇集 (ちくま文庫)

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