ロブ=グリエのために


 佐藤亜紀さんのブログ日記(新大蟻食の生活と意見/2月19日)に、新聞のアラン・ロブ=グリエ死亡記事に関する批判が掲載されている(http://tamanoir.air-nifty.com/)。佐藤さんは某朝日新聞の死亡記事と共同通信(配信)の死亡記事とを並べて、某朝日新聞が「いかに駄目記事」であるかを詳述なさっている。詳細は直接ブログを御覧いただければよいのだけれども、当該記事の「(ロブ=グリエは)従来の小説の枠を打破し、ストーリーの一貫性に乏しかったり、心理描写を欠いていたりするヌーボーロマンの理論を確立した」(佐藤さんの引用されている文とリンク先の記事とは若干の異同がある)といったくだりに対して、


 <「小説って一貫したストーリーがあって、心理描写があるもんだよね。だけどこの人の作品にはそういうものがないからつまんない。こんなの小説じゃないよ」という主張が簡単に読み取れる。と言うか、読み取って欲しいのであろう。>


と書いていらっしゃる。
 だが、はたしてそうか。それは深読みというか、いささか過大評価ではあるまいか。私が思うに、当該記事の筆者は、なにか文学事典のようなものを見て、そのまま引き写すのはまずいのでアレンジしようとしたのだけれどよく理解していないためにへんちくりんな記事になっちゃった、というだけのことではないでしょうか。悪気はないというか、自らの文学的信念によってヌーヴォー・ロマンを批判しようとしたとは到底思えません。だって、文章がへんだもん。
 仮に、ヌーヴォー・ロマンが「ストーリーの一貫性に乏しかったり、心理描写を欠いていたりする」として、そんなものの「理論」をどうやって確立するのだろう? 理論というなら少なくとも、ストーリーの一貫性や心理描写を否定した、でなければならない。
 いっぽう共同通信の記事は、「50年代以降、伝統的な小説の形式を否定し、革新的な表現を探求したヌーボー・ロマンの旗手。登場人物の心理分析を排除し、視覚描写を徹底する前衛的作風には難解なイメージもつきまとった」と書かれていて、佐藤さんは「文化面の評判のいい新聞だが、流石である」と高く評価されている。たしかに某記事よりは正確である。
 だが、と私は思う。この二つの記事は文章の構造があまりに似てはいまいか? 共同通信の記者もまた、なにかのソースに基づいて記事を書いたのではあるまいか(むろん、某記事の某記者のような半可通ではないが)と思ってとりあえずWikiを調べてみると、


 (Wiki)「(ヌーヴォー・ロマンは)従来の近代小説的な枠組に逆らって書いた同時代の作家達を総称するためのジャーナリスティックな呼称である(中略)、作者の世界観を読者に「押しつける」伝統的小説ではなく、プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた、ある種の実験的な小説で、言語の冒険とよんでいい。」


とあった。これは一部分の抜粋にすぎないが、Wikiの記事は新聞記事よりむろん正確でより詳しい。
 ここで再び、さきほどの二つの記事を召喚すれば、


 (某)「従来の小説の枠を打破し、ストーリーの一貫性に乏しかったり、心理描写を欠いていたりするヌーボーロマンの理論を確立した。」

 (共同)「50年代以降、伝統的な小説の形式を否定し、革新的な表現を探求したヌーボー・ロマンの旗手。登場人物の心理分析を排除し、視覚描写を徹底する前衛的作風には難解なイメージもつきまとった。」


 どうでしょう。Wikiの「プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた」(これも表現に難はあるが)を某新聞の某記者が「ストーリーの一貫性に乏しかったり、心理描写を欠いていたり」と書き換えた、というのはいかにもありそうなことである(本当はどうか知りませんが)。ただ、ロブ=グリエの小説は「視線の文学」と称されるほど事物の徹底した描写に特徴があるという文学的知識がなかったため、共同通信の記者のように「視覚描写を徹底する」というキイワードを入れることができなかった。手抜かりである。Wikiにはちゃんと「客観的な事物描写の徹底」と書いてあるのにね。
 新聞の死亡記事という限られたスペースで、ヌーヴォー・ロマンの特長と意義とを詳述することは難しいが、Wikiの「読者は、与えられた「テクスト」を自分で組み合わせて、推理しながら物語や主題を構築していかざるを得ない」のくだりは簡略化してでも入れるべきであった。でなければ、なぜ「プロットの一貫性や心理描写」を否定したかが伝わらないからである。

 ところで話を冒頭に戻せば、佐藤亜紀さんがそう書く気持はわからないではない。「小説って一貫したストーリーがあって、心理描写があるもんだよね」といった「近代小説的な枠組」を後生大事に戴いた小説観はいまだに大手を振ってまかり通っている。むろん、そうした小説観にもとづいた小説が悪いというわけではない。だがそれは十八〜十九世紀の小説のスペックである。ロブ=グリエは『ヌーヴォー・ロマンのために』(邦訳『新しい小説のために』新潮社)で、いまはバルザックジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、と書いている。


 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、情念の規則的な屈折、それぞれのエピソードの終局への指向、等々――はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけることを目的としていた。世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。小説の文章(エクリチュール)は潔白であることができた。
 ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。この思い出、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。」(平岡篤頼訳)


 バルザックの小説はバルザックの生きた時代の社会を描いたものだからスペックもそれに応じたものとなっているわけで、いまの社会を描くにはいまの時代に応じたスペックが必要となる。ラ・ファイエット夫人なんて西鶴の同時代人なんだからね。ジョイスベケットもいなかったかのような暢気な小説観に佐藤さんが苛立つのは当然である。だからこそ『小説のストラテジー』という啓蒙的な文学論の本を書かなければならなかったのだろう。
 ロブ=グリエが『ヌーヴォー・ロマンのために』という啓蒙的な文学論の本を書いてからもう半世紀近くが過ぎた。李さん一家がそれからどこへ行ったかというと……
 実はまだ二階にいるのです。なんてね。