待つには待たじ――大西巨人の真骨頂


 松永伍一さんが亡くなったとき、長年親交のあった西郷輝彦さんは野辺の送りに立会い、知人たちとこう語らったという。
 「淋しいね…でもあの立派な脳、もったいないね」*1
 このたびの大西巨人さんの死にさいして、わたしは如上の西郷輝彦さんとほぼ等しい感懐をいだいた。その感懐は必ずしもわたし一己のものではあるまいとわたしは信じる。大西さんの「立派な脳」に蓄えられた文藝その他にかんする厖大な知見はいったいどこへ行ってしまうのだろう――。
 大西巨人に「待つ」という随想がある(以下、敬称を略する)。週刊誌「朝日ジャーナル」に連載せられた随想のなかの一篇で、のちに『巨人の未来風考察』の題で単行本になり、大西巨人文選4『遼遠』に再録せられた。以下にその概略を記す。
 大西は冒頭、まず万葉集より額田王の下記一首を引用する。


 君待つとわが恋ひをればわが屋戸の簾動かし秋の風吹く


 そして、佐佐木信綱犬養孝の著書により額田王について略述したのち、佐藤春夫の下記一首を連想したと引用する。


 寝ねがてにわが恋ふるまにひえびえと朝風としもなりにけらずや


 連想は両者に共通する「「風」(という語ないし自然現象)の存在のゆえに」であるが、額田王の一首はその風ゆえに解釈が分かれている、と述べる。
 谷馨は著書『額田姫王』において古来の諸説を検討し、「この歌が「風を待人来たる前兆とする俗信」に立脚していると見る説と、そのようには見ない説との二つに大別」したうえで前者を肯定する。一方、土橋寛は著書『万葉開眼』において「前者をニベもなく否定」し、この歌は「天皇をしのぶひそやかな想いと、簾を動かす秋風の気配とが微妙に調和して、しみじみとした情感の漂う歌」であって、前者のごとく前兆とみると「簾が動いている、まあうれしいわ、ということになって、これでは何もかもぶち壊しである」と断定する。
 筆者大西は「私も、土橋とともに後者に与する」と述べ、小島憲之の著書『上代日本文学と中国文学』より「佳人秋風裡の幽艶な歌風の姿は、六朝詩よりまなんだものとみるべきではなかろうか」を肯定的に引用したうえで、「たとえば謝ちょう(月偏に兆)作五絶『玉階怨』(『玉台新詠集』)に思い寄るのである」とその詩を引用して(ここでは略す)こう述べる。


 「前掲額田王作一首における「待つ」(という語ないし人為現象)の存在が、――人生における「待つ」という行ないの有意義性とその限界性とが、――今日の私に強く作用する」


 和歌一首をめぐって大西巨人の脳髄がフル稼働し、博引旁証止まる所を知らず。ここに大西巨人の真面目がある。
 だが、連想はそれに止まらない。さらに欧米の作物に及び、ロスマク『さむけ』のリュウ・アーチャーとその相手との会話「待ってるのです」「レフティを? それともゴドーを?」からオデット『レフティを待ちながら』、ベケットゴドーを待ちながら』へと漸進的横滑りをし、ストリンドベリダマスクスへ』を介して芥川龍之介「尾生の信」で我邦へと回帰し、次のように結語する。


 「人生において「待つ」という行ないは、たいそう有意義である。しかしそれには、画然として限界が、存在する。かくて『萬葉集』巻二(九〇)の「君が行き日(け)ながくなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ(じっと待ってはいない)」の能動性と今日の「平和は、座して待つべきでなく、たたかい取るべきである。」のそれとが、時の差を超えて共振するのである」


 わたしは前言を翻し、ここに、なかんづく「平和は、座して待つべきでなく、たたかい取るべきである」に大西巨人の真骨頂がある、と断言する。


 わたしは大西の驥尾に附して以下に一つ二つの蛇足を加える。 
 『ダマスクスへ』から「尾生の信」への連想は、前者の「四十年間、私は、ある物を待っていました。それは『幸福』と呼ばれる物である、と私は信じてきましたが、あるいはそれは、ただ『不幸の終わり』でしかないのかもしれません」という主人公の台詞と、後者の「橋の下で女と逢うべく約束をし、女がいっかな来ないのを愚直に待つうち、水嵩が増したため、ついに溺死する」主人公との照応によるものと一先ずは言うべきだが、大西巨人のその連想の底には、ストリンドベリと芥川とに共通する「狂気」への親和という事情が必ずや介在したにちがいない。また、芥川作「歯車」に「僕は丸善の二階の書棚にストリンドベルグの「伝説」を見つけ、二三頁づつ目を通した」という一節が存在する。
 金井美恵子のエッセイ集『待つこと、忘れること?』(絵 金井久美子、平凡社)のあとがきに以下の一節がある。


 「『待つこと、忘れること?』というタイトルは、『期待・忘却』とも訳されることのあるモーリス・ブランショの小説のタイトルなのですが、私たち(と、いうのは姉と私とトラー)のこの本は、もちろん、ブランショとはなんの関係もありませんし、それに、ひんぱんに物忘れをするようになった年頃になって、こうなると、あとはアレを待つだけ(アレ、というのは「死」です)、という意味で付けたタイトルでもありません。
 いってみれば、ただ、なんとなく――なので、そういった意味で「?」がついているわけです」


 ブランショの『待つこと、忘れること』(平井照敏訳、思潮社)に次の一節が存在する。


 「待つこととは、機会を待つことであった。そして、その機会は、期待からうばいとられた瞬間、もはや待つことが問題ではなくなる瞬間にしか、やってこないのだった」


 この一節はべつの箇所の「期待とは、やってくるすべてのものを、その未来にのこしておく、おだやかな打すてられたものです」とともに、わたしに少なからぬ感慨を催させる。