「あっと思った」こと――二年半後の『太宰治の辞書』



 北村薫さんの『太宰治の辞書』が文庫本になった。単行本が刊行されたときに、「書物探索のつづれ織り」という感想文をここに書いたのがもう二年半前*1。単行本は新潮社から出たけれど、文庫は創元推理文庫です。《円紫さんと私》シリーズですからね、当然でしょう。
 嬉しいことに、文庫版には単行本の三篇の小説に加えて、ボーナストラックとして短篇小説「白い朝」と二つのエッセイが附いている。「白い朝」は、短篇集『紙魚家崩壊 九つの謎』に収録された作品だが、なぜあえてこの文庫版『太宰治の辞書』に再録されたのか。その「謎」は、本文庫の解説で米澤穂信氏が解き明かしている。「謎」の解明ということだけでなく見事な解説で、いたく感心した。
 さて、新たに収録された二つのエッセイのうち、ひとつは「一年後の『太宰治の辞書』」。
 これは、「小説新潮」2016年1月号に掲載されたもので、文中に北村さんの大学の、そしてワセダミステリクラブの後輩でもある「歌人藤原龍一郎(の短歌)」が登場する。わたしは、藤原さんから教えられて「小説新潮」を読んだ。題名のとおり、単行本『太宰治の辞書』が刊行された一年後の「後日譚」である。
 ちょうどその頃、わたしは長年勤めた会社を退社した。退社にあたって、社員にメールで届く電子版の「社内報」のようなものに一文を求められた。以下の文章がそれである。


     *****

   「あっと思った」こと。


  鎮まらぬこころのごとく夜もすがら風を集めて鳴る梢あり


 窓の外で小枝が風に吹かれて一晩中ひゅーひゅーと鳴っている、まるで騒立ちやまぬ私の心のように。眠れぬ夜に屈託を抱えてひとり耳を澄ませている作者の姿が目に浮かびます。大西民子さんの歌集『無数の耳』の一首です。
 昨年12月、お世話になった方から御食事に誘われ、さてなにか心ばかりの贈り物をと思案したすえに選んだのが、上記の歌を揮毫された大西民子さんの色紙でした。その方は若い頃にパリでピエール・カルダンのお弟子さんだった服飾デザイナーで、大西さん主宰の短歌誌に所属されて歌もよくなさった方です。たいそう喜んでくださりほっと安堵しました。色紙は、詩歌の古書を専門に扱っている石神井書林――「ひととき」でコラムを連載されている内堀弘さんのお店から購入したものです。内堀さんには、私も在籍中に『書痴半代記』という文庫の解説を書いていただいたことがあります。
 年が明けてついこの間、思いがけないところでこの『書痴半代記』に巡り合いました。北村薫さんの「一年後の『太宰治の辞書』」という短篇(昨年刊行された単行本『太宰治の辞書』の後日譚)のなかで、です。以下はその一節――。


 《「『書痴半代記』……」/覚えがある。/「ウェッジ文庫です」/あっと思った。/「それ……、うちにあるし、読んでます」》


 あっと思いました。それ、うちにあるし、読んでます。ていうか、私がつくりました……。
 その随筆風短篇小説によると、北村さんは『書痴半代記』の書評も書いてくださっていたとのこと。迂闊にも知りませんでした。
 ウェッジ文庫が小説に登場するのはきっとこれが最初で最後でしょう。「小説新潮」1月号に載っています。機会があれば御一読下さい。


     *****

 「太宰治の辞書」は、太宰治の辞書、すなわち『掌中新辞典』を主人公である「私」が探索する物語だが、作者である北村さんもその辞典を探索されていた。小説のなかでと同様、群馬県立図書館で北村さんが手にしたのは表紙のない辞典である。なんとかして、表紙を見たい。そう思っていると、編集担当者から現物が見つかったという電話がかかってきた。クラフト・エヴィング商會吉田篤弘氏が所持しているそうだ。吉田氏は、堀口大學が『掌中新辞典』を褒めているという文章を読んで興味を持ち、ネットで検索して入手したという。


 「堀口大學は、どういう文章で、どういう風に褒めてるんでしょうね」
 「さあ。何でも岩佐東一郎の『書痴半代記』という本に出て来るそうです」


というやりとりがあって、上記の
 「『書痴半代記』……」/覚えがある。」
に繋がる。
 わたしが「あっと思った」のには、すこし別の意味合いも含まれている。たとえば、
 《「『月下の一群』……」/覚えがある。/「講談社文芸文庫です」》
とはならないだろう。
 あるいは、川端康成の『掌の小説』なら「新潮文庫です」とはならないだろう、と思う。『書痴半代記』といったときに、「文庫版の……」ではなく、「ウェッジ文庫です」と返答されたところにいささかの感慨のようなものを覚えたのである。
 北村さんは、ウェッジ文庫版『書痴半代記』の書評も書かれたという(わたしは残念ながら未見だが)。当然、岩佐東一郎堀口大學に教えられて『掌中新辞典』を愛用していた、という個所は読んでいられたはずだ。北村さんは、 


 「本は、いつ読むかで、焦点の合う部分が違って来る。『太宰治の辞書』の探索を終えた後で『書痴半代記』を読んだら、
 「あっ!」
 と、声をあげたろう。しかし、順序が逆だった。このページを読んだ時には、無論、後に『掌中新辞典』を追いかけることになるとは知るよしもない。
 ――へええ、そういう辞典があったんだ。
 と、思っただけで、あと白波となりにけりだった。」


と、書いている。わたしもまた、『書痴半代記』は当然繰り返し読んでいる。しかし、『太宰治の辞書』を読んだときに「ああ、そういえば『掌中新辞典』って『書痴半代記』に出てきたな」とは、露ほども思わなかった。わたしの場合は、むろん、ただのボンヤリである。


 創元推理文庫版『太宰治の辞書』に新たに収録されたもう一篇のエッセイは、「二つの『現代日本小説体系』」。書下ろしである。わたしも時折り拝読している、はてなブログの「黌門客」(ウェッジ文庫への言及もある)に、北村薫著『六の宮の姫君』についての文章があり、同著に出てくる『現代日本小説体系』(河出書房刊)の巻数の齟齬が指摘されていた。北村さんが「黌門客」に「いずれ、エッセーなどの形で、読み手に届くような説明をしたいと思います」とコメントを寄せられている。その齟齬の「謎」をめぐるエッセイがこの文章である。ブログ「黌門客」*2とともに読まれたい。
 河出の『現代日本小説体系』はなかなか面白い全集で、全65巻だそうだが、わたしは二冊だけ持っている。『六の宮の姫君』に「第五巻など実に渋い」とあって、饗庭篁村以下八名の作家が列挙され「駅の売店に置いたら、さぞかし売れないことだろう」と結ばれる。
 わたしの所持する56、57巻も、じつに渋い。いずれも「昭和十年代」の小説だが、56巻は武田麟太郎に始まり、澁川驍、新田潤、寺崎浩、北原武夫、井上友一郎、矢田津世子、高木卓、富澤有為男、榊山潤、大鹿卓、保高徳蔵の十二名、57巻は浅見淵小田嶽夫、中村地平、岡田三郎、網野菊石塚友二永井龍男川崎長太郎、丸岡明、外村繁の十名。いずれも大半がわたしの好みの作家たちで、単行本で所持している作家も少なくない。
 浅見淵の本などは実際につくったこともあるけれど、駅の売店に置いても、案の定、売れなかったようだ。