阿部昭の小説を読むには……

 

 阿部昭の新刊が出ていた。このところ外出もせず(べつに謹慎しているわけではないけれど)書店にも御無沙汰で、うっかり見落としていた。文庫版の『天使が見たもの』(中公文庫)と単行本の『阿部昭短編集』(水窓出版)の二冊。阿部昭は、今年が没後30年なんですね。

 ネットで書影を見ると、二冊ともちょっと現物を手に取ってみたくなる、なかなかいい感じの仕上がり。いずれも短篇小説のアンソロジーで、文庫版のほうは副題に「少年小景集」とあるように、阿部昭得意の少年小説を集めたもの。巻末エッセイが沢木耕太郎で、「ああ、こんな文庫本をつくってみたかったなあ」という気にさせられる。

 これは中公文庫のオリジナル・アンソロジーだが、阿部昭の作品はかつて中公文庫で何冊も出ていた(わたしはいまでも持っている)。その後、講談社文芸文庫からも主要な作品は数冊出たはずだが、どちらももう古書店で探すしかないだろう。それだけにこの二冊は時機を得たものだ。

 

 ところで――。

 前回ブログを更新されてから約1ヶ月が経過しました。そろそろ次の記事を投稿してみませんか? というメールが2、3日前に届いた。

 そういわれると、たしかにほぼ一ヶ月更新していない。メールの差出人は、知人や、当ブログの数少ない読者ではなく、〈はてなブログ〉となっている。要するに、〈はてなブログ〉からの更新催促のお便りなのである。御親切に「趣味の話や休日の話、最近うれしかったことや、買ってよかったもの、家族やペットの話」といった近況を書いてはどうかとか、「お題スロット」(大喜利のようなものか)に参加してみてはいかがかなどとアドバイスも怠りない。

 むろんこれは、〈はてなブログ〉の運営に携わる人たちが日夜、パソコンの前で数多くのブログに目を光らせて、「ふむ、このブログのぬしは毎日更新して感心なことだ」とか、「おお、このブログはもうひと月近く更新が滞ってるな。ちょっと催促してやろう」とか、考えているわけではないだろう(たぶん)。詳しい仕組みはわからないけれど、各ブログの更新の頻度がコンピュータによって機械的に計測され、それによって自動的にメールが発信されるのだろう(きっと)。そこには、人間の労働は介在しない。『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)で新井紀子がこう書いているように。

 「(略)グーグルやヤフーやその他さまざまなグローバル企業や研究者が血眼になって開発を進めているAIは、もの凄い勢いで私たちの日常生活に浸透し始めています。すでに、人間に代わってAIに仕事をさせている企業も出現しました。今後はその傾向に拍車がかかります。」

 たしかに、昨年など年に2度しか更新していないけれど、こんなメールは届かなかった。AIの開発に拍車がかかっている証拠だろうか。

 新井紀子はベストセラーになった同書で、AIが人間に取って代わることはない、と断言している。なぜならAIは計算機であり、「計算機は計算しかできない」からだ。わたしもそう思う。いままで人間がやっていた労働で、AIが代替できるものはやがてAIに取って代わられるだろう。それはなにもAIにかぎらず、かつて発明されたさまざまな機械がそうであったように。機械は人間の手の延長であるといった意味のことをマクルーハンがとなえたのは半世紀以上も前のことである。

 わたしがこの本を読んでおもしろいと思ったのは、AI「東ロボくん」の開発に携わってきた著者が、AIの開発よりも中高生の読解力の向上こそが日本にとって喫緊の課題であると認識するにいたった過程である。著者たちが行なった「基礎的読解力調査」の結果は、著者のみならず多くの人たちを啞然とさせるに足るものだ。

 ここでいう読解力とは、著者がいうように「谷崎潤一郎川端康成の小説や、小林秀雄の評論文を読んで作者が訴えたいことや行間に隠されている本当の意味などを読み取ること」ではなく「辞書にあるとおり、文章の意味内容を理解するという、ごく当たり前の意味での読解力」である。この調査の結果がヒサンなのは、テストの問題が難しいからではなく、問題文が読めない、つまり何を問われているのかが理解できないからなのだ。これでは鉛筆を転がして回答するしかないだろう。その結果、正答率は「サイコロを振って答える程度」だったという。

 「AIと共存する社会で、多くの人々がAIにはできない仕事に従事できるような能力を身につけるための教育の喫緊の最重要課題は」と著者はいう。「中学校を卒業するまでに、中学校の教科書を読めるようにすることです。」

 

 折りも折り、朝日新聞の「天声人語」が「文芸誌の「すばる」と「文学界」が、立て続けに国語教育の特集をしている」と書いている(8月17日朝刊)。「高校の国語でこれから、文学が選択科目になるためだ」という。調べてみると、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」の4つが選択科目で、必修ではないので、近代以降の文学を学ぶ機会が失われるかもしれない、ということらしい。この新指導要領は2020年から適用されるとのこと。

 文科省の意図は定かではないが、どうやら読解力低下への対応策らしい。だがそれにしてはピントがずれてはいないか? 課題は、中学を卒業するまでに、中学の教科書を読めるようにすることなのだから。

 阿部昭の『天使が見たもの』は、収録作全14篇のうち半数近くが高校国語教科書の掲載作品であるという。前述の天声人語子によれば、「すばる」7月号で小川洋子が「教科書で出会わなかったら一生出会えない、そんな文学がある」と語っているそうだが、そもそも中学校の教科書を読めなければ、阿部昭の小説だって読むのはおぼつかない。

 

天使が見たもの-少年小景集 (中公文庫)

天使が見たもの-少年小景集 (中公文庫)

 

 

March winds and April showers bring May flowers.: 阿部昭短編集

March winds and April showers bring May flowers.: 阿部昭短編集