安吾の「真珠」――金井美恵子『エッセイ・コレクション1』と『目白雑録5』を読む


 たとえ惰性であるにせよ*1金井美恵子の本は小説であれエッセイであれ新刊が出たら取りあえず買って読むことにしているのだからこのたび刊行された『金井美恵子エッセイ・コレクション1 夜になっても遊びつづけろ』に収録されている文章はすべてたぶん一度は目にしたはずなのだが(それぞれの文末に初出誌は明記されているけれどもどのエッセイ集に収録されているかは不明なのであるいは初めて単行本に収録された文章もあるのかもしれない)、それにもかかわらず購入したのは巻末に高校生の頃の「美術手帖」への投稿文(や「リュミエール」に掲載された匿名コラム)が再録されていたからというわけでは必ずしもない。むろんそれも購入の動機の一つであるといっても差支えないけれども、10ページにも満たない、それも最近とりわけ度が進んできた老眼にとっては天眼鏡がなければ読みづらい小さなかすれた活字で組まれた頁が縮小して掲載されているのだから、それを読むのが目的で2000円以上の代金を払うほど酔狂でも熱狂的なファンでもない。それよりもむしろ奥付の対抗ページに記載された略歴に「30冊近い数々のエッセイ集を刊行している」と書かれているそれらのエッセイ集の半数以上はすでに手元にないので、この選集で再読してみるのもいいかと思ったのが購入の主たる動機といっていい(『夜になっても遊びつづけろ』は場所をとらないので講談社文庫版が書棚に残っている)。 
 取りあえず気ままに拾い読みをしていると読んだ覚えのあるものもないではないけれどそのほとんどが初めて読むのと同じようなものだから新しいエッセイ集を読んでいるのとさして変わらず、それというのも1964年から2012年までのエッセイ(「作家自身がセレクトし」と帯裏に書かれている)が選ばれているのだけれど、「当時、私は八歳で、八歳の子供だった三十六年も前の」という文章に「三十六年も前」というのは誤植ではないかと反射的に思ってしまうほど20年以上前に書かれたそのエッセイ(「因果と厄介」、「文學界」一九九一年十二月号)は文体も発想も今と変わらない。
 この本の「解説エッセイ」で「金井さんの鋭い批評は、わたし自身が世の中を見るときの、ゆるぎない物差しの一つであり続けている」と述懐する小説家の中島京子がかつて女性誌の(というよりも昔風に「婦人雑誌」といったほうがぴったりする雑誌の)駆け出しの編集者であった頃に「先輩編集者の助言を無視して」金井美恵子に原稿の依頼をしたところ「パンチの効いたお原稿」が届き、「うちの雑誌の読者にはキツいかなあ」と思いつつ「だって金井さんの原稿だよ、ピリッてしてなきゃつまんないじゃないの」と原稿を上司に見せると「デスクは困ったような顔をして、それでも「お疲れ」とだけ言って、その原稿を編集長に回した」のだが、案の定、駆け出し編集者は編集長に呼ばれて、「中島さん、読者はね、これ読んで、馬鹿にされたって思うわよ、きっと。雑誌は、読者を第一に考えるものなの。自分が好きだからって理由で、原稿依頼してはだめなの。わかったわね。一つ、勉強になったわね」とお説教されることになるのだった。そして「編集長は、そう言って、それでも判子をぽんと押し、その原稿は翌月発売される号に掲載された」わけで、そのエッセイはこのコレクションにも収録されている(「主婦と「文学」」)。


 そうやってあちらこちらを拾い読みしていたら「本当の」新しいエッセイ集『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』が刊行されたので、エッセイ・コレクションを読むのは一時中断してこちらに取りかかることになるのだった。
 『目白雑録4 日々のあれこれ』が出たのが2年ほど前でここでも感想をしたためた*2のだけれども(『目白雑録』シリーズの感想は、2も3も4もここで書いている。もう恒例といっていい)「パンチの効いた」というか『日々のあれこれ』の背帯にある「冴え渡る意地悪さ」(「意地悪」に「おかし」のルビ)は今回も変わらぬものの、それまでの『目白雑録』シリーズに必ずあったつい吹き出してしまうユーモラスな箇所が今回は影を潜めなんとなく重苦しい気分が全体を覆っているように見えるのは、本書に収録されている2011年6月号から2013年5月号までの連載分のほとんどが東日本大震災に関わる言説を取り上げているためであるにちがいない。
 これらのエッセイが「一冊の本」に連載されていたころ足並みを揃えるように高橋源一郎が月に一度朝日新聞に論壇時評を書いていて(それはいまも続いている)そのせいで高橋源一郎は幾度も金井美恵子の批判の的になるのだけれども、おそらく金井美恵子の小説やエッセイの愛読者であるにちがいない高橋源一郎はいくらぼこぼこにされてもあの長い顎をむっつり右門のように撫でさすりながらにやにやしているのだろう。金井美恵子の「パンチ」はそれが誰であれ(たとえば自分の文庫の解説を書いたことのある斎藤美奈子であっても)不用意な発言に対しては容赦なくふりそそぐのであってその公明正大さは誰もが知っていることなのでここでその一々について書くまでもないだろう。
 ひとつ書いておきたいのは「「非常時にはことばが失われる。」」と題された2012年11月の回のエッセイで、タイトルにカギカッコとマルがついていることから察せられるようにこれは誰かの発言を引用したものでその誰かとはほかならぬ高橋源一郎である。「非常時にはことばが失われる。でも作家はことばを失っちゃいけない。戦争中や直後に坂口安吾太宰治がしたように、一人だけでもしゃべらないと……。みんながことばをなくして困っているときに、間違ってもいいから最初に何かを言う。それが作家の仕事なんだと思う」と高橋源一郎は、これは論壇時評ではなく朝日新聞のインタビュー「3・11後続く表現の「戒厳令」 高橋源一郎の新刊「非常時のことば」」で語っているのだけれども、このインタビューではなく高橋源一郎の別のインタビューの発言についてはわたしもここで書いたことがあり、そこでも高橋は「震災も原発も私には関係ない」とはとても言えないような、ある種の言葉が使いにくい「戦時下に似た雰囲気」にあっては「身を守るためには黙るしかない。でも、作家はそれをやっちゃおしまい」と語っているのだった*3
 ところでその3・11について金井美恵子は、


 「〈3・11〉という中黒の入った数字によって表記され、音として口にされる時には、サンテンイチイチ(傍点つき)と発音される言葉=数字、イチイチが重なっているというので並べられることがかなりあったのが、なぜか自然災害とは関係のないテロによる自爆のビル破壊の9・11(キューテンイチイチ)であったが、高橋に「非常時」や「ことばの戒厳令状態」という言葉を選ばせたのは、二つの数字の間のナカグロをテンと発音し、二ケタの数字をジューイチと読まずに数字を並べて読む歴史的日付として、最も名高い〈2・26〉という言葉の響きのせいであったかもしれない。」


と書いて〈2・26〉を「ニーテンニーロク」と表記するのだが、2・26はニーニーロクもしくはニニロクではあるまいか。寡聞にして2・26事件を「ニーテンニーロクジケン」と発音している例をわたしはしらない。ちなみにWikipediaでは「二・二六事件(ににろくじけん)」であり、「一般に、「ニニロクジケン」でなく「ニーニーロクジケン」と伸ばして発音されることが多い」と注記されている。「ニーテンニーロク」はいかにも間延びしており「ニーテンニーロクジケン」と事件がつくとさらに間延びがして語感がわるい。ここはやはり「ニーニーロク」と「ニニロク」の中間ぐらいの発音がふさわしく、それでこそ雪道を踏みしめて行進する軍靴の響きが伝わってくるというものであろう。
 それはそれとして、高橋源一郎の「戦争中や直後に坂口安吾太宰治がしたように、一人だけでもしゃべらないと……」という発言を引用した後で金井美恵子は「嫌味のためにするのではないのだが」と珍しく殊勝げな断りを入れたうえで山田風太郎の『同日同刻』という文庫本の「十二月八日対米宣戦の奉読と真珠湾攻撃のラジオ報道を耳にした、主に文学者の記した文章」から「坂口安吾太宰治の中の「私の人間は変ってしまった」と小見出しのつけられた文章」を引用する。太宰治はさておき坂口安吾からは「真珠」の次の一節が孫引きされている。


「街は軒並みに国旗がひらめいている。街角の電柱に新聞社の速報がはられ、明るい陽差し(原文は「陽射し」)をいっぱいに受けて之も風にはたはたと鳴り、米英に宣戦す、あたりには人影もなく、読む者は僕のみであった。/僕はラジオのある床屋を探した。やがて、ニュースが有る筈である。客は僕ひとり、頬ひげをあたっていると、大詔の奉読、つづいて、東条首相の謹話があった。涙が流れた。言葉のいらない時が来た(金井による傍点11字)。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。」


 金井美恵子はこの一節を引用するのみでそれになんらコメントをつけていないのだが、「言葉のいらない時が来た」に傍点を附していることから察すると、「非常時にはことばが失われる。でも作家はことばを失っちゃいけない。戦争中や直後に坂口安吾太宰治がしたように、一人だけでもしゃべらないと……」と高橋源一郎が例にあげる安吾は「ことばが失われる」ということをむしろ積極的に肯定しているではないかといいたいのかもしれない。
 このカッコでくくられた引用文の前に金井美恵子は次の文章をカッコ抜きで附している。


「翌年の三月に『日本文化私論』(ママ、正しくは『日本文化私観』)を発表することになる三十六歳の作家は小田原の知人宅で大酒を飲み、翌朝戦争のニュースを聞くが、タイ国境の小競合いくらいなものだろうと考えて、魚を買いに目抜きの商店街なのに人通りの少ない町へ出る。」


 これが山田風太郎の『同日同刻』からのものなのか金井美恵子による「真珠」の要約なのかはつまびらかにしないけれども、「翌年の三月に『日本文化私観』を発表することになる三十六歳の作家」というのは小説「真珠」のものでなく坂口安吾を間接的に表した注記のようなものといっていい。「真珠」にはたしかに平野謙やら大井広介やらといった固有名詞が出てきて文中の「僕」が安吾その人だと読みうるように書かれているので私小説といってもいいだろう。だが「翌年の三月に『日本文化私論』を発表することになる三十六歳の作家は」と書かれると「真珠」がまるでエッセイのようであり、上に掲げた一節の「言葉のいらない時が来た」も安吾の感慨のように見えてしまう。金井美恵子もまたそう考えて引用したのだろう。だが「真珠」は安吾の私的感懐を叙述したエッセイではないし、かりに私小説であるとしても「僕」すなわち安吾と解するのはあまりにも素朴な小説観であろう*4
 「真珠」とはどういう小説なのか。


「十二月八日以来の三ヵ月のあいだ、日本で最も話題となり、人々の知りたがっていたことの一つは、あなた方のことであった。
 あなた方は九人であった。あなた方は命令を受けたのではなかった。あなた方の数名が自ら発案、進言して、司令長官の容れる所となったのだそうだ。それからの数ヵ月、あなた方は人目を忍んで猛訓練にいそしんでいた。もはや、訓練のほかには、余念のないあなた方であった。」


と書きだされるこの短篇は、いうまでもなく太平洋戦争の劈頭、真珠湾攻撃において特殊潜航艇に乗り組んでアメリカの艦船を攻撃し、ついに帰還しなかった九名の特別攻撃隊員――いわゆる「九軍神」として知られる――に向けて書かれた小説である。「向けて」というのはかれらに呼びかけるようにそこだけは二人称で書かれているからだが、いっぽうで語り手である「僕」は開戦の数日前から大井広介のうちに泊り込み平野謙といっしょに探偵小説の犯人の当てっこに興じたり酒をくらっては酩酊し、といった何時にかわらぬのんべんだらりとした日常を過ごしている。


 「十二月八日午後四時三十一分。僕が二の宮の魚屋で焼酎を飲んでいたとき、それが丁度、ハワイ時間の月の出二分、午後九時一分であった。あなた方の幾たりかは、白昼のうちは湾内にひそみ、冷静に日没を待っていた。遂に、夜に入り、月がでた。あなた方は最後の攻撃を敢行する。アリゾナ型戦艦は大爆発を起し、火焔は天に沖して灼熱した鉄片は空中高く飛散したが、須臾にして火焔消滅、これと同時に、敵は空襲と誤認して盲滅法の対空射撃を始めていた。遠く港外にいた友軍が、これを認めたのである。
 日本時間六時十一分、あなた方の幾たりかは、生きていた。あなた方の一艇から、その時間に、襲撃成功の無電があったのである。午後七時十四分、放送途絶。あなた方は遂に一艇も帰らなかった。帰るべき筈がなかった。」


 記録文書を思わせもする簡潔な叙述にいささかの感傷のくもりもない。一片の高揚もなく、そこにはただ事実のみがある。
 昭和十七年六月一日発行の「文芸」第六号に発表されたこの小説を読んだ平野謙文芸時評で「最近読んだ作品のなかでは、坂口安吾の『真珠』が群を抜いて立派だった。すこし誇張していえば、太平洋戦争勃発以来はじめて芸術家の手になる文学らしい文学を読んだ気がした」と高揚して書く。


 「(「九人の勇士」に対する)その国民的感動は、それをすぐさま一篇の文学作品に織りこむのを憚かる一種敬虔な性質を含んでいるはずなのに、わが坂口安吾は惧れ気もなくただひとすじに押しきり、一見無造作に自己のぐうたらな日常生活とないあわせることによって、かえって見事な作品世界を造型したのであった。凡庸作家なら当然失語症に陥らざるを得ない「神話」の絶対世界に、坂口安吾はみんごと手ぶらで推参したのであった。彼が純正な芸術家だったからである。つねに魂の感動を求めてやまぬ生粋の文学者だったからにほかならない。」


 金井美恵子が傍点つきで引用した「言葉のいらない時が来た」はこの小説の語り手である「僕」の偽らざる感慨でもあったろう。だが小説家坂口安吾は――生粋の文学者である坂口安吾は、「失語症に陥」ることなく一篇の見事な小説に結実させたのである。ここには戦争への讃美のことばも反戦への秘めた意思もない。死者の鎮魂だけが、ただそれのみがしずかに語られている*5


 「あなた方はまだ三十に充たない若さであったが、やっぱり、自信満々たる一生だった。あなた方は、散って真珠の玉と砕けんと歌っているが、お花畑の白骨と違って、実際、真珠の玉と砕けることが目に見えているあなた方であった。老翁は、自らの白骨をお花畑でまきちらすわけには行かなかったが、あなた方は、自分の手で、真珠の玉と砕けることが予定された道であった。そうして、あなた方の骨肉は粉となり、真珠湾海底に散った筈だ。あなた方は満足であろうと思う。然し、老翁は、実現されなかった死後に就て、お花畑にまきちらされた白骨に就て、時に詩的な愛情を覚えた幸福な時間があった筈だが、あなた方は、汗じみた作業服で毎日毎晩鋼鉄の艇内にがんばり通して、真珠湾海底を散る肉片などに就ては、あまり心を患わさなかった。生還の二字を忘れたとき、あなた方は死も忘れた。まったく、あなた方は遠足に行ってしまったのである。」


目白雑録5 小さいもの、大きいこと

目白雑録5 小さいもの、大きいこと

*1:id:qfwfq:20060625の末尾

*2:id:qfwfq:20110703

*3:id:qfwfq:20111030

*4:大西巨人が「作家と作中人物とを混同または同一視しないことが、批評の第一原則とせられる」と書いているように。

*5:大西巨人は「真珠」を簡潔にひと言で評している。「名品」である、と。