奇才須永朝彦の二著

 

 ユリイカ臨時増刊号『総特集 須永朝彦 1946-2021』が刊行された。今年5月に長逝した歌人・作家須永朝彦の全300頁余を費やしての追悼号である。須永朝彦の名を知る読者がどれほどいるのかわからないが、超の名がつくマイナーポエットには違いないだろう。ほぼ同時に山尾悠子編で『須永朝彦小説選』(ちくま文庫)も出た。山尾悠子が「ユリイカ」で書いているように「生前元気なうちに実現していれば」須永がどんなに喜んだろうと思うが詮方ない。晩年なにかと逼迫していたと聞くだけになおさらそう思う。二冊ともに江湖の喝采を博すことを冀う。

 寄稿している方々の多くが須永朝彦をいつ見知ったかと筆を起しているので、わたしもそうしよう。わたしが須永朝彦と出会ったのは、三一書房刊の『現代短歌大系』の第11巻「現代新鋭集」、もしくは「季刊俳句」創刊号のなかでだったと思う。いずれも1973年の刊行。「季刊俳句」創刊号には連載小説「聖家族」の第一回目が掲載されており、同誌が四号で休刊したため連載も四回で中断したが、このたび『須永朝彦小説選』に初めて収録された。山尾悠子によれば、最晩年の須永は「聖家族」を単行本として上梓したいと漏らしていたそうで、雑誌掲載時と収載された文庫版を比べてみると字句に若干の異同が見られるのは、著者自身が刊行を念頭に推敲していたためか。ともあれ、雑誌掲載からおよそ五十年ぶりに日の目を見たのは喜ばしい。

 『現代短歌大系』の「現代新鋭集」は、平井弘や村木道彦、浜田康敬、福島泰樹ら、まさに新鋭と呼ぶべき気鋭の新進歌人らをピックアップしたもので、そこに掲出された須永朝彦の歌だけが解説で完膚なきまでに批判されているのは異様な眺めだった。須永の歌を一刀両断のもとに切り捨てたのは竹内健。『現代短歌大系』は書棚の奥深くに隠れているので、吉村明彦が「ユリイカ」に寄稿した「須永朝彦との三九年」から孫引きしよう。

竹内健は須永の

 水衣に映ゆる面の喝食を水に問ふわが山吹の性

なる歌を取り上げ、

須永自身は神遊びの境にいるのかも知れない。だが「わが山吹の性」とは一体何事であるのか。こういうのを私は彼の分別と解釈する。彼の歌から私が連想するのは、テレビの子供出演者、いわゆるジャリ・タレである。

と批判した。さらに、

 みづからを殺むるきはにまことわが星の座に咲く菫なりけり

について、

「わが山吹の性」に発した須永の長い詠嘆風の歌は右の一首で終る。この歌を最期に須永が此世から去ったとすれば、「星菫」も「咎なくて死す」も詩となるであろう。しからざれば、この歌は嫌味である。誰に対しての嫌味なのか。読者に無縁である以上、須永自身に対して嫌味であろう。この歌人は、死を詠んで死と無縁であり、スペイン、ポルトガルを詠んでイベリア魂と無縁である。されば、歌を詠んで歌と無縁にあらざる事を祈る。

と筆致は秋霜烈日である。

 吉村明彦はこの竹内健の解説文を引用し、「真摯な批評であるが、そこまで酷評するなら採りあげる必要があったのか、と思う」と述べているけれども、竹内にしても批評するに値しないと思えば無視したろう。ここまで書かせるなにものかを須永のうちに認めていたからこその「酷評」だったにちがいない。塚本邦雄を通して現代短歌に目覚めたばかりであったわたしは、いささか厳しすぎるとはいえ、竹内健の批評に首肯するものがあった。須永の歌は技巧的ではあったが、どこか造花を思わせる人工的な煌びやかさで、なにより、塚本邦雄や春日井建らの歌にふれたときのような感動を彼の歌に味わうことがなかった。

 生身の須永朝彦に会ったのは一度だけ、たしか1976年だったと思う。書評紙の編集者になったばかりのことだ。当の書評紙は全8頁で、4~6面がそれぞれノンフィクション、文学、学術・思想の書評欄で、わたしは最初、学術・思想欄を、次いで文学欄に移り、最後は8面の映画・演劇・美術欄を担当した。7面は企画頁で、時々のトピックを担当者が取り上げて紙面を作っていたが、ときに営業部からのリクエストで記事広告というか全面タイアップ記事とすることもあった。

 あるとき、全5段広告(75年から刊行が始まった国書刊行会の世界幻想文学大系あたりだったか)出稿のバーターで関連記事をつくってほしいという要請が営業担当者から7面の編集担当者にあり、彼に頼まれてわたしが紙面を構成したことがあった。吸血鬼をテーマにすることにし、吸血鬼関連のブックガイドをわたしが書き、吸血鬼に関するエッセイを須永朝彦に依頼した。この頃には、須永の吸血鬼小説も読んでいたのだろう。原稿が書き上がり、受け取りに行った。それは、江戸川橋のわたしの会社から歩いてすぐのところのマンションの一室だった。たしか表札には須永ともう一人の名前が掲げられてあり、だれかと同居している様子だった。そのとき、なにを話したのか、短歌の話などしたのかどうか、まるで記憶にない。ちなみに、この記事を見た富山太佳夫(当時まだ著書もない大学の助手で、時折同紙に執筆していた)が、吸血鬼ブックガイドなら自分が書きたかったと言ったと人づてに聞いた。

 ともあれ、この追悼号はわたしの知らない須永朝彦の「素面」をさまざまに教示してくれた。とりわけ興味をひかれたのは塚本邦雄の小説集『連弾』への須永の書評で、「週刊読書人」に掲載された切抜きを須永の遺品のなかから発掘したものだという。1973年の執筆で、須永が塚本に「破門」された後のことになる。大要は以下のとおり。

 塚本邦雄の小説で評価すべきは「月蝕」をはじめとする第一短篇集『紺青のわかれ』のみで、以降「完成度は下降の一途」をたどるばかり、『連弾』など「無惨でさえある」。「修辞に綺羅を尽せば尽すほど言葉は形象を結ぶことなく硬直し、説得力を失う」。そして「私はふと、このままでは散文作家としての塚本氏は、奇才のなしくずしに終ってしまうのではないかという懸念を抱いたのであった」と結ばれる。

 わたしも塚本の数多い小説集からこれ一冊ということになれば、『紺青のわかれ』に指を屈するものだが、『連弾』その他が須永のいうような「無惨」な出来であったかどうかは、半世紀ちかく前に読んだきりなので、にわかに判断はできない。だが『連弾』以降も塚本の小説は手に入る限りは入手して読んできたのだから、須永のいうような否定的な印象は受けなかったとおぼしい。それよりも、この書評の「修辞に綺羅を尽せば尽すほど」のくだりなど、須永の短歌にこそ当てはまるのではないか。須永の「懸念」は、奇才須永朝彦のその後のゆくたてを予見するものであったような気がわたしにはしないでもない。