三島由紀夫の「素面」



 藤田三男さんは河出書房の編集者時代に三島由紀夫の本を何冊も手がけていられる。編集者として見た三島由紀夫の「素面」を書きとめた文章は、装丁を手がけた本の書影とともに『榛地和装本』『榛地和装本 終篇』の二冊の著書に収められているけれども、なかでも印象深いのは自裁した1970年夏の三島の表情をとらえた一文で、三島は現今の文壇の沈滞に呪詛の言葉を投げかけ、ノーベル賞の受賞を逸した原因について語り、執筆中の「豊饒の海」が完結してもなんの話題にもならないだろうと悲観をこめて予見したという。


 「すでにこの時、一個の文学作品が文壇において評価されいかに問題にされようと、その事自体に「欠伸をして」いる三島由紀夫がいた。三島さんの底知れぬ焦立ちと荒廃を感じ、私はただ黙って聞いていた。」*1


と藤田さんは書いている。あらゆることに絶望し、絶望した涯にあらゆることに倦んだ一人の天才がここにいる。すでに長く生き過ぎたと思っていたのかもしれない。大谷崎や川端のような老年を生きるなど三島には思いもよらなかったろう。三島の自裁がきわめて個人的な死であると同時に社会的な死でもあったのは、あのようなスキャンダラスな事件として多くの人を愕かせたからだけではない。三島の死とともに日本のなにかが死んだからでもある。いや、そうではあるまい。もはや死んでいたということを、三島の死がいまさらのようにわれわれに突きつけたからである。
 藤田さんによれば、三島はきわめてパンクチュアルな人だったという*2。藤田さん自身も時間に正確なかたで、待合わせをすると十分前には来て待っていられる。わたしはつねに遅れてゆくので、たまに早く着くことがあると「おや、今日はどうしたい?」と揶揄われてしまうのだが、藤田さんの時間厳守のマナーは三島仕込みのものなのかもしれない。
 さて、「その三島さんが一度だけ遅れたところを見た」と藤田さんは書いている。昭和四十五年十一月十七日の谷崎潤一郎賞の授賞式で、三島由紀夫は遅れて会場に着いた。銓衡委員の座る席のもっとも上座は空いたままで、二番目の席に舟橋聖一、三番目に丹羽文雄が座っていた。「遅れて来た三島さんは、そこへ座るしかなかった」。そして、授賞式から祝賀パーティに移るとすぐにそこをあとにしたという。その折りの「暗い疲れた表情(あとになってそう思ったのだが)」が「三島さんを見た最後」で、その八日後の二十五日に三島は市ヶ谷で自裁する。
 ところで――


 「三島さんは少し遅れて来られた。
そうして、上座と目される席に、すっと坐ってしまった。
その様子に、悪びれるところは微塵もなかった。臆するところがなかった。それがいかにも三島由紀夫であるというふうに私の目に映った」


 こう書くのは、その日、会場にいた山口瞳である。「気兼ねするしないという段ではなく、むしろ、颯爽としていた」と山口瞳は三島の印象を書きとめている。人から聞いたこととして山口瞳は三島のこんなエピソードも伝えている。川端康成の新年会に出た時、高見順林房雄ら先輩文士がいても「すいっと上座に坐ってしまう」のだという。そう話した人も「礼儀知らず」だという意味でなく、いかにも三島らしいという口調で話したという。
 山口瞳が寿司屋で三島由紀夫とたまたま同席したときのこと。三島は、トロだかマグロだかそればかりを注文し続けた。それは十回ぐらいに及んだという。「いかにも三島さんらしい」のだが、「イイナと思うのが半分、イヤダナと思うのが半分」だと山口瞳はいう。つまりマグロは寿司屋にとっては「目玉商品」なので、そればかりを注文されて品切れになると寿司屋が困るのだ。


 「三島さんは「知らない」のである。「知らない」ということに、いくらか子供っぽさが混じっている。日本にしかない寿司屋における初歩的なマナーを三島さんは知らないのである。おそらく、三島さんの生涯において、一人で寿司屋に入るなんて機会は、ほんの数えるほどしかなかったのではないかと思う。」


 山口瞳は、ドナルド・キーンが三島の死後、新聞に書いた文章を引用している。キーンは、三島の自裁の二年前にいっしょに奈良へ旅行した。三島は神社の裏山に生えている「松」を知らなかったという。


 「その晩にカエルのなきごえが聞こえると、三島さんは私に『あれは何』と聞いた。その後間もなく犬がほえたので『あれは犬ですよ』と私が言うと、三島さんは『それくらいは知っていますよ』と言って大笑いした」(毎日新聞、十一月二十六日)


 わたしは以前見た『からっ風野郎』を思い出した。この映画にチンピラやくざの役で主演した三島は、どう見ても気の弱い優等生が拗ねているとしか見えなかった。ラスト、動いているエスカレーターの上で死ぬ場面では、撮影中にエスカレーターから転落して救急車で病院に運び込まれたという。三島の空手の演武を間近で見たときも、運動神経の鈍そうな人だなとは思ったけれど、そういう三島の「素面」をわたしは嫌いではない。
 山口瞳は三島の死後二日に起筆して、およそ二か月、週刊誌の連載随筆に三島について書き続けた。三島の死をどうにかして理解しようとする一種の「現場報告」のようなエッセイである。自分は三島のいい読者ではないといい、作品についてよりも人物を語る文章ではあるけれども、寿司屋でマグロを注文し続けた三島、松もカエルも知らなかった三島について語ることは自ずと彼の小説の批評になっていると思う。
 この山口瞳の文章は『追悼』上巻に収録されている。これは山口瞳の追悼文を「精選集成」したもので、1963年歿の川島雄三に始まり、1995年歿の高橋義孝に閉じる八十人に献じた追悼文が上下二巻に収録されている*3。上巻の解説で編集者の宮田昭宏氏が「この『追悼』は、山口瞳の戦後文学論であり、作家論でもあり、マスコミ論でもあり、世相巷談でもあり、そして実録文士盛衰記にもなっている」と喝破していられるように単なる追悼文集でないのはこの三島に関するエッセイに見るとおりである。
 ふと思いたって目次で伊丹十三を探したが載っていない。不審に思ったが、それも道理で、伊丹十三山口瞳の歿後二年に亡くなったのだった。もし逆順であれば、必ずや心にのこる追悼文を読むことができたろう。正月、山口瞳は夫婦で逗留していた湯河原の旅館に伊丹一家を招いたものの自身が危惧したとおり、旅館が次々と繰り出す豪勢な料理をみんなが無言で黙々と食べ続けるという、あの、そらんじることができるほど繰り返し読んだ傑作に匹敵する追悼文を。


追悼〈上〉

追悼〈上〉

*1:「『欠伸をしている』ミシマさん」、『榛地和装本 終篇』ウェッジ刊、2010

*2:三島由紀夫の“定刻”」、同上

*3:山口瞳のことなら誰よりも精通している中野朗の編集である。安んじて読まれるがいい。